時間切れ!倫理

 98 大乗仏教

(ア) 誕生の経緯
 先ほども話したように、日常生活を捨てて出家をしなければ、絶対に悟りを開けません。仏教の教えが中道だといっても、やはり出家しなければならない。出家をせずに日常生活を送る信者のことを在家といいます。在家の人は悟りを得られません。では、在家信者が信仰心を持つのにはどんな意味があるのか。
 出家修行者は、生産労働に従事していませんから、生活費を稼ぐことはできません。彼らは在家信者のお布施によって生活をします。お布施をするのは、業(ごう)としては良いおこないなので、お布施をすることによって在家信者は、今度生まれ変わるときは、より良い人生に生まれ変わることができる。それが解脱ができない在家信者が信仰心を持つ意味です。

 ブッダ没後、彼の遺骨を納めた仏塔と、そこに集う在家信者たちから話は始まります。
 ガウタマは旅の途上で亡くなるのですが、たくさん弟子が付き従っていた。このとき、修行の進んだ弟子たちは悲しまない。ガウタマのアートマンが輪廻から抜け出て、梵我一如を達成することは、悲しむべきことではないからです。一方、修行の浅い弟子たちは、悟りがどういうものか分かっていないので悲しんだ。同じように、在家の信者達は、悟りが何か全く分かっていないし、ガウタマを心から慕っていたので、ものすごく嘆き悲しみました。
 インドは火葬なので、ガウタマの遺体は火葬され、そのお骨が埋葬された場所には仏塔が建てられました。ガウタマの死を嘆く在家信者たちは、仏塔の周りに集まってブッダを偲びながら暮らしていました。ガウタマはインド各地を回って布教しているので、各地に信者の集団がいます。この各地の信者集団が、ブッダを偲ぶため、自分たちの地域にもブッダの遺骨を埋めて仏塔を建てたいとおもう。そこで、ブッタの遺骨は各地に分けられて、塔が立てられた。この塔をストゥーパといいます。塔といっても、土饅頭の形です。日本では京都の化野念仏寺にこの形の塔があります。その名も仏舎利塔。

   雑談になりますが、信者たちの求めに応じて、ブッダのお骨はどんどん分けられていきました。インドだけではなく、中国、朝鮮半島、そして日本にまで。日本に来ると、ストゥーパは、五重塔とか三重塔とか、おなじみの形になります。
 仏塔が建っているところには必ずその下にブッダの骨が埋まっていることになっています。聖徳太子が建てた法隆寺の五重塔の下にも。どこであれそこに仏塔があれば、そこにじゃブッダのお骨があるはず。だから仏陀の遺骨はどんどんと細かく分割されて、米粒みたいに小さなものになっています。これを仏舎利(ぶっしゃり)という。お寿司で米のことを、シャリといいますが、仏舎利から来ている。
 本当に、全ての仏塔に舎利が埋まっているかどうかはわかりませんが、そういうことになっている。世界中の仏塔の仏舎利を集めてくれば、何百人分もの骨にもなるという話もあるので、偽物も多いと思いますが、そこはあまり詮索しないほうがよいでしょう。インドに行けば、本物のブッダの骨が古いストゥーパに埋まっている可能性は高そうですね。

   話を戻します。ブッダの死後、在家信者たちは仏塔を建てて、そこでブッダの死を悲しんでいるわけです。このようにブッダのことを信仰している人たちも、在家信者である限り悟りの世界には行くことができない。救われないのです。
 大乗仏教を作ったお坊さん達は、このような在家信者たちの姿を見て「なんとかならないか」と思った。「この人たちはこんなにブッダのことを信仰し、慕っているのだから、救われてもいいのではないか」と考えたわけです。
 ガウタマ=シッダールタは自分が悟りを開いた時に、最初は「悟りの境地は人に伝えることは不可能だ」と考えて、布教をしようとは思わなかった。しかし、慈悲の気持ちを起こし、布教しようと考え直しました。
 修行ができない在家信者ではあるが、慈悲の心を持っているガウダマ=シッダールタであれば、彼らを救ってあげようと思うのではないか。ならば、彼らも救われる仏教にしよう、と考えた僧侶たちが、大乗仏教を作ったのです。一切衆生(いっさいしゅじょう)の救済を目指すということです。一切衆生というのは、全ての生きとし生けるものということです。

 2023年2月9日

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