世界史講義録 現代史編

 07-1 ソ連の変化「雪解け」、東欧の動乱

ソ連の変化ースターリンの死と平和共存

 冷戦が本格化するのは1950年代なのですが、実は同時期にソ連で大きな変化が起こります。それが1953年の、ソ連の指導者スターリンの死去です。
 スターリンは典型的な独裁者でした。1930年代の粛清は有名で、百万以上の人が処刑されたり、収容所に送られたりしたといわれています。地位の高い者も同じで、ソ連軍の高級将校の60%異常が粛清によって殺された。これによってソ連軍は弱体しているはずだと判断したことが、ヒトラーの独ソ戦開始の理由の一つともいわれています。どこまで本当か分かりませんけれども。
 とにかく、信用できる仲間だと思って、うっかり誰かにスターリンにたいする批判を喋ってしまったら、その人は翌日に消えていなくなっている、そういう世界です。スターリンは自分の周りにイエスマンばかりを集めて政治を行っていた。そのスターリンが亡くなった。

  彼の死後、複数の指導者たちによる集団指導体制がおこなわれるのですが、そのなかから頭一つ抜け出して、党のトップである(ソ連で一番偉い)第一書記となったのがフルシチョフです。この人です(写真)。怖い顔して演説していますが、 丸顔のおっちゃんで、スターリンの厳しい顔つきと比べると、なんとなく人のいい感じがする。プライベートフィルムをテレビでも映していましたが(『映像の20世紀』)、やはり田舎のおっちゃん風です。実際はどうか分かりませんよ。権力闘争に生き残ってきたわけですから。しかしスターリンと比べるとにこやかでオープンマインドな感じです。後にアメリカに行ってきて当時の副大統領ニクソンと一緒にテレビにも出演する。いわゆるワイドショーにも出ている。その映像を見ても、冗談を飛ばして大衆受けする柔らかい感じです。

 この人がソ連のナンバー1になった後、1956年にソ連共産党第20回大会というのが開かれる。この共産党大会というのが、事実上ソビエト政府の最高機関で、何年かに一回開かれて、政治の基本方針が決められる。
 ここでフルシチョフは秘密報告として「スターリン批判」を行った。さらにアメリカとの平和共存路線を表明する。 フルシチョフは、「スターリンはひどかったよな」というわけです。彼は偉大な指導者だったかもしれないけれども、彼が権力を握ってる間、どれだけの人間が無実の罪で殺されたかと、独裁政治を批判するわけです。みんな同じ気持ちでした。スターリンの酷さはみんな知っている。でも怖くて誰も何もいえなかった。死んで3年後、フルシチョフはようやく「スターリン、ひどかったよね」というわけです。
 秘密報告だから外部に漏れてはいけないことになっているんですけれども、こういう話は絶対に漏れる。西側にも伝わる。ソ連の新しい指導者フルシチョフがスターリンを批判した、ソ連の政治の風向きは変わる、という話です。
 アメリカにとって、スターリンは訳の分からない独裁者だった。ヒトラーと同じくらいにひどかったからね。第二次世界対戦前のイギリスは、ヒトラーとスターリンとどちらと組むべきか、つまりどちらが本質的に敵対勢力なのか、最後まで迷っていたくらいです。最終的にはスターリンと組んでヒトラーを叩くわけですが。
 そのスターリンがいなくなるし、しかもフルシチョフは平和共存路線だという。これからはアメリカと敵対するのではなく、仲良く一緒にやっていきたいというのですよ。これが雪解けといわれる東西緊張の緩みです。

 スターリンが死んだ後、スターリン批判のちょっと前なのですが、1955年ジュネーブ四巨頭会談というものが開かれます。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の代表が、ジュネーブに集まって会談した。これがその写真。アメリカのアイゼンハワー大統領だけ覚えておけばいいからね。ソ連代表としてフルシチョフが来ているわけではありません。だけれども、この会談は第二次世界大戦中のポツダム会談以来、アメリカ、イギリス、ソ連の指導者が集まった初めての出来事でした。フランスも加わっていますけれどもね。この3カ国のリーダーが集まっていることが画期的でした。冷戦の激しい時期に、彼らが直に会うなど想像できなかったわけです。 緊張緩和の象徴的な出来事でした。
 スターリン死後の、東西の接近の延長線上に、フルシチョフのスターリン批判と、平和共存路線が打ち出されたわけです。

 この後フルシチョフが招待されてアメリカに行ったのは、さきほど述べたとおり。ソ連の指導者がアメリカに行くというのは、まさに画期的、奇跡的な出来事だったのです。これ以前にも以後にも、米ソのトップの相互訪問はありません。

東欧の改革と挫折

 ソ連の変化は、東欧にも影響します。東欧諸国は、こう考えた。ソ連の指導者が変わった。新しい指導者はスターリンを批判していた。 東ヨーロッパの国々はスターリン時代、第二次世界大戦が終わった時に、社会主義体制を押し付けられて現在に至っている。スターリンによってそうさせられた。指導者が変わったのだから、自分達はもうソ連から自由になってもいいのではないか、ソ連はそれを許すのではないか。東欧の国々の人々はそう思った。そして、ポーランドとハンガリーでソ連から離れようという動きが実際に起こります。

 1956年、ポーランドのポズナン(ポズナニ)という町で、労働者による反ソ・反政府暴動が起きる。ポズナン事件という。ポズナンで反ソ連暴動が起きると、ソ連軍が出動してきますが、ポーランド共産党は自分たちで始末をつけるとして、ソビエト軍が国内に入ってくるのを待ってもらい、その間にポズナン暴動を鎮圧します。この後、ポーランド共産党の指導者の地位についたゴムウカという人物は、国民の不満を解消するために若干の自由をポーランド国内に与えました。要するにポーランド共産党は反乱を鎮圧はするけれども、国民の声を聞いて政策をちょっと緩める。それに対してソビエト共産党は文句は言いません。

※他国(ソ連)の武力干渉を避けるために、政府が自らの国民を弾圧せざるを得ないという状況。反乱する市民も、真の敵は自国政府ではなく、ソ連政府だと認識している。この複雑な構造を、見事に描いたのがアンジェ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』。ラストシーンを見よ。

 同じく1956年、ハンガリー事件が起こります。ハンガリーの反ソ連暴動です。これはハンガリーの首都ブダペストで、民衆がスターリンの肖像画を燃やしているところ。これは市民たちが国立劇場前のあったスターリンの銅像を倒しているところ。市民の動きの呼応して、ハンガリー共産党の指導者ナジ=イムレは、ワルシャワ条約機構からの脱退、これはソ連圏からの離脱を意味します、および複数政党制導入を宣言します。一党独裁の放棄ですから、社会主義体制の放棄にもつながりかねない動きです。
 そうすると、ワルシャワ条約機構軍、事実上はソ連軍がやってきて、この暴動を鎮圧し、ナジ=イムレを捕まえてソ連に連行し、処刑してしまいました。

 つまり、ソ連はスターリン時代に比べれば確かに緩んだけれども、自国の勢力圏である東ヨーロッパ諸国が、自由にふるまうことは許さない。ポーランドの場合は、自分たちのところで始末しますというので、ソ連軍は入ってきませんでしたが、ハンガリーの場合は政府も市民と一緒になってしまったので、ソ連軍が侵入してきた。ナジ=イムレもゴムウカもセンター入試レベルでは登場しませんが、私学入試や2次試験では出るかも。

ベルリンの壁

 以前に話したベルリン封鎖とは別の話です。ベルリンの壁が作られたのは1961年。ハンガリー事件やポズナン事件の5年後です。
 前にもいったように、東ドイツの中に西ベルリンがある。ベルリンは重要な都市なので、第二次世界大戦の処理で、東ベルリンと西ベルリンに分けられ、西ベルリンは西ドイツの領土となっていましたね。東ドイツの領土の中にぽつんと浮かぶ離れ小島のような存在です。
 1961年くらいになってくると、社会主義の国と資本主義の国の経済発展に差が出てきます。目に見えて資本主義国の方が豊かになってくる。それから東側には自由がないですよね。東ドイツもソ連圏ですから、内政もソ連共産党の顔色を伺いながら行われている。市民は社会主義の思想を押し付けられるし、生活も豊かではない。そんななかで、不満を持った東ドイツの人たちが、西側に行きたいなと思ったら、西ベルリンに行けばいいんです。西ベルリンから飛行機に乗れば、西ドイツ本土をはじめ、西側の国どこにでも行ける。だから西ベルリン経由で西ドイツで亡命する人がどんどんと増えていきました。
 東ドイツ当局は、西ベルリン経由の西ドイツへの人口流出に悩んだ。ベルリンの西と東の間に国境線はあるけれども同じ町。御堂筋を挟んで、大阪市の西と東が違う国になっているようなものです。おばあちゃんは東成区に住んでいるけれども、孫は住吉区に住んでいる。彼女は生野区に住んでいるけれども、彼氏は大正区に住んでいる。住んでいる人達は国境など意識せずに同じ街の中だから行き来をしていました。
 行き来できるからこそ、西ドイツに亡命したい人は西ベルリンにいけばよい。そういう人がどんどん増えてくるので、このままでは東ドイツはもたないと判断した東ドイツ政府は、移動できないように西ベルリンの周りを壁で囲いました。要所要所に監視所があって、無理やりに壁を乗り越えようとする人がいれば射殺した。これが東西ドイツ分断の象徴的な建造物になりました。恋人同士や親兄弟親戚であっても互いに行き来できないようになってしまった。分断国家の悲劇の象徴です。

 ソ連が崩壊する直前の1989年に、この壁はドイツ人自身によって壊されて、現在東西ドイツは統一されています。

 2021年07月13日

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