世界史講義録 現代史編

 07-2 キューバ革命とキューバ危機

 1960年前後は、世界で様々な事件が起こっているので要注意ですね。  これからの話とは全然関係ないように見えますが、1959年キューバ革命という事件が起きている。教科書の地図を見てください。キューバの場所を頭に入れておいてくださいね。アメリカ合衆国があって、フロリダ半島がカリブ海に突き出している。そのすぐ南側にキューバの島があります。元々はスペインの植民地でしたが、アメリカ=スペイン戦争でスペインから独立し、事実上アメリカの保護国のようになっている。
 独立後は独裁政治がつづき、1950年代はバティスタという人物が独裁政治を行っていました。中南米によくある独裁国家のひとつです。親米独裁国家と書いてありますね。これらの独裁者はアメリカと仲がよい。

 キューバをはじめとする中南米諸国は、一般的に貧富の差が非常に激しい。プランテーションによるモノカルチャー経済の国が多く、プランテーションを経営する一握りの人達だけが豊かな暮らしをしている。プランテーションでは貧しい農業労働者たちが働いている。<>br  貧しい国民たちは、政府に対して不満を持ちます。「俺達貧しい農民にも土地をよこせ」という考えも生まれてくる。そういう貧しい人々に、一番魅力的な思想が社会主義思想です。社会主義になったらみんな平等になる。一握りの豊かな連中から土地を取り上げて、皆を豊かにしたらいいと考える。こういう人々が本格的に社会主義政党に組織され革命など起こされ、社会主義国になっては困る。だからアメリカとしては、このような貧しい国々の反政府的な動きを押さえつけて欲しい。押さえつけるためには独裁政治が必要です。アメリカは民主主義の国というけれども、このような第三世界において独裁者が社会主義的な勢力を押さえつけることは、大歓迎します。そのような独裁者を支援します。

 キューバのバティスタはそういう独裁者。アメリカの支援を受けて貧しい人々を押さえつけて独裁政治を行う。こういう独裁者はアメリカ政府がバックにあると思うから、国民の思いなど無視し、一握りの人たちだけのための政治をおこなう。当然、政治は腐敗する。ますます人々が政府に対して反発する。こういう悪循環が生まれます。
 キューバでは、このバティスタ独裁政治に対して革命運動が行われていた。これが成功して、バティスタの独裁政府が倒された。これがキューバ革命。

 革命のリーダーはカストロです。長生きして数年前まで生きていましたね。カストロと共にゲバラというリーダーも非常に有名です。ゲバラはカストロよりも人気があって、1960年代には世界中の若者のアイドルのような存在でした。こんなポップなポスターも作られて、世界中どこの国に行っても、少し政治的な若者の部屋には彼のポスターが貼られていた。
 ゲバラはかっこいいんですよ。元々アルゼンチンの人。学生時代に南米をずっと旅行をする。自分自身は医学生で裕福な家の出身なのですが、南米の国へ行けばどこでも貧富の差が激しい。彼は、貧しい人々の非常に惨めな暮らしを見聞する。後にキューバにわたり、カストロに協力して革命運動を行いました。
 キューバ革命が成功した後は、キューバで大臣になり、日本にも来たことがあります。しかしキューバの国づくりより、貧しい人々が抑圧されている国で革命運動をする仕事が残っている、といって、キューバを出て世界の各地で反政府武装闘争をおこなった。最後はボリビアでゲリラ活動をやっているときに、政府軍に捕まって殺されてしまった。
 高い地位に安住せず、こんな場所に身を投じていった。 意義申し立てをする世界中の若者のアイコンになった、と書いてありますね。 この人を主人公にした映画もたくさんあります。一つだけ紹介しておきます。『モーターサイクル・ダイアリーズ』。学生時代に南米を旅するゲバラを描いた映画。感動的な映画でした。革命は出てきません。ゲバラの若い頃の話。友達と南米を旅行する。様々な人と出会いながら自分が変わっていくというそんな映画でした。ラストシーンが彼の人生を象徴する名場面で、泣けます。

 話を戻しますが、このフロリダ半島の目と鼻の先にあるキューバが社会主義の国になる。カストロは、当初はキューバを社会主義国にしようと思っていたわけではない。バティスタの独裁制には反対していた。ところがキューバ革命が起きると、アメリカは親米政権を倒したキューバ革命政府を許すことができず、キューバに経済制裁を加えます。キューバはアメリカに葉巻を買ってもらえなかったり、アメリカから観光客が来なかったら、経済的に行き詰まってくるのです。
 経済的に困ったキューバに救いの手を差し伸べたのがソ連。そこでカストロがだんだんとソ連と社会主義に接近するわけです。

 やがてアメリカの偵察機が、ソ連がキューバにミサイル基地を建設しているのを発見する。 地図がありますけれども、このキューバのミサイル基地からミサイルを発射した場合どこまで射程に入るか描いていありますね。ニューヨークもワシントンも射程に入っていますよね。キューバのミサイル基地に、ソ連が核ミサイルを持ち込んだら、アメリカはやられてしまう。これはならん、とアメリカは思う。そこで1962年にアメリカとソ連の緊張関係が一気に高まる。 核戦争直前まで行ったのです。これがキューバ危機。

 アメリカはソ連に対して、キューバにあるミサイル基地を撤去しろと警告する。ちょうどソ連の貨物船がキューバに近づいてくる。よく出てくる写真です。ソ連船の上に飛んでいるのはアメリカの偵察機。ソ連船にはミサイルを積んである。この船がキューバに到着するのを防ぐために、アメリカはキューバを海上封鎖します。地図にはアメリカの海上封鎖ライン が書いてありますね。
 アメリカは、海上封鎖ラインを越えてソ連船がキューバに近づいたら戦争も辞さない構えです。ソ連の船はどんどんキューバに近づく。本当に核戦争になる直前まで行きます。世界中が固唾を呑んで見守っていた。
 この船は封鎖ラインにギリギリまで近づいて、その直前に U ターンして引き返していきました。なんとか核戦争を免れたのです。
 この時のアメリカの大統領は有名なケネディです。二人は核戦争直前の段階で回避しましたが、その直前までいった。これがキューバ危機です。

 こんなことがあったのが原因かどうかわかりませんが、キューバは今でもアメリカに嫌われ、経済封鎖を行われていて、経済的には大変苦しいようです。
 カストロは死にましたが、キューバは今でも社会主義体制です。

 話を戻しますが、キューバ危機の時、ケネディもフルシチョフも心の底からビビったと思います。自分が核兵器を使うという決断をするかもしれない。その結果アメリカが滅亡するかもしれない。ソ連は滅ぶかもしれない。人類が滅亡するかもしれない。この緊張感は半端ないですよね。本当に怖かったと思う。
 一番怖いのは、ケネディとフルシチョフがそれぞれ核戦争したくないと思っていても、たくさんの官僚や軍人たちが自分たちの下にいて、この人たちが少しでも情報を歪んで伝えてきたら、間違った情報で核ミサイルを発射するという命令を出すことになるかもしれない。二人ともそういうことを感じたようです。
 そこで思ったわけだ。「直接相手と話したい。やつは何を考えているんだ」と。たくさんの部下が大統領に意見を言う。たくさんの役人がフルシチョフに情報を伝える。「今こんな状況です」と。「ほんまか?それ」と思うわけです。直接話したいでしょ。
 そこでこの事件の後、ホワイトハウスとソ連の指導者がいるクレムリン宮殿の間に直通電話が開かれます。ホットラインという。ソ連が崩壊して今はロシアになっていますが、今でもホットラインはあるはずです。アメリカのバイデン大統領が、ホワイトハウスのホットラインの受話器をあげれば、モスクワ、クレムリンのプーチン大統領の電話が鳴るはずです。昨日二人が会談したというニュースがありましたが、会わなくても直に話そうと思ったら話ができる。実際にこの電話を使うことはないでしょうけどもね。

緊張緩和の動き

 この後、核兵器に対する流れも少し変わってきて、1963年、部分的核実験停止条約が結ばれます。1950年代、反核運動が盛り上がる一方で、相変わらずアメリカもソ連もイギリスもフランスも、太平洋や中央アジアの砂漠で核実験を繰り返していた。世界中に放射性物質が拡散している。やはりこれは駄目だね、という話になって、核実験を部分的に止める話が進みました。大気中の実験は大気を汚染するから禁止する。海中も海水を汚すから禁止。宇宙も駄目ですね。ロケット打ち上げに失敗したらとんでもないことになる。じゃあどこでやるの。で、地下だけは OK。 地下に核弾頭を埋めて爆発させるのは OK にしましょうということになった。現在はこの条約に多くの国が参加しています。
 数年前に、北朝鮮が核実験をおこなったというニュースが流れていました。北朝鮮はこの条約に参加していませんが、さすがに実験は地下でやっていました。

 2021年07月23日

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