世界史講義録 現代史編

 09-2 中東戦争とアラブ民族主義の隆盛

 次に場所が飛んで中東地域です。アラブ地域。
 この地域一帯は、第一次世界大戦まではオスマン帝国の領土でした。第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国は、ムスタファ=ケマルの活躍によって現在のトルコ共和国に変わります。オスマン帝国によって支配されていたアラブ人地域は、イギリス及びフランスの委任統治領となりました。その上で徐々に独立していく。
 中東地域からアフリカ北岸、いわゆる地中海沿いに住んでいる人々は皆アラブ系といわれています。実際には様々な民族が混じっているのだと思いますが、皆アラブ人として自分たちのことを認識しています。これから話をするのは、現在でいえばエジプトからアラビア半島、シリア、パレスチナ、ヨルダン、イラクまでの地域です。
 第二次世界対戦後の1945年、独立を達成したアラブ人諸国がアラブ連盟を結成します。参加した国々を暗記する必要はありませんが、エジプト、シリア、イラク、レバノン、トランスヨルダン、イエメン、サウジアラビア。もちろん宗教はイスラーム教が中心です。これも東西対立に対するもう一つのグループといえます。この時期に独立してきた国々のことを第三勢力と言いました。アラブ連盟諸国も第三勢力に含まれます。第三世界ということもある。
 同時にアラブ人の民族意識が高まってきます。この中で出てくるのがパレスチナ問題です。
 第一次世界対戦後、パレスチナ地方はイギリスの委任統治領となっていました。例のフサイン=マクマホン協定で、第一次世界大戦中にイギリスはアラブ人に独立させるという約束で、自国に協力させました。その結果作られたのが、イラクとトランスヨルダンでした。レバノンとシリアは、フランスの委任統治領から独立した地域。
 しかしパレスチナ地方だけはイギリスの委任統治領のままで、国を作らせませんでした。なぜならば、ここがユダヤ人たちの故郷で、第一次世界大戦中にバルフォア宣言でイギリスがユダヤ人の国を作らせると約束していた場所だったからです。 そのため、イギリスはにここにはアラブ人の国を作らせずにキープしていました。しかし、ここにすぐにユダヤ人の国を作ったわけではない。だってややこしいからね。この地域には2000年前にユダヤ人の国が亡くなってから以降、ずっとアラブ人たちが住んでいるわけで、簡単に国を作れません。
 一方で、第一次世界大戦中の約束を信じて、世界中のユダヤ人たちが続々とパレスチナ地方に移住してきました。彼らと、元から住んでいたアラブ人たちの紛争が続発して、絶えなくなる。イギリスは何とかこの紛争を取り沈めようとしたのですが、何ともならない。
 第二次世界大戦が終わると、一層多くのユダヤ人たちがパレスチナ地方に移住してきます。だってナチス政権下のヨーロッパで、無茶苦茶に迫害されましたからね。アウシュビッツ収容所などの調査で、ユダヤ人絶滅計画によって、ユダヤ人がどれだけ酷いことをされてきたかが明らかになり、世界中からユダヤ人に対する同情が集まる。
 そういう世界的な同情の中で、パレスチナ地方にユダヤ人の国を作るという案が国際連合で作られます。何度もいうように、ここにはアラブ人が住んでいます。パレスチナ地方に住んでいるアラブ人のことをパレスチナ人と特に言います 。これはどうするのか。
 1947年、国連ではパレスチナ分割案が決議されました。地図ではピンクとグリーンに色分けされていますが、 緑色の所にユダヤ人の国を作る。ピンク色のところにはパレスチナ人に住んでもらうという案です。二つに分けるのでパレスチナ分割案と言う。この案に対して、国ができるユダヤ人たちは大賛成します。この段階でも続々と世界中からユダヤ人たちが移住してきています。
 しかしパレスチナ人たちは猛反対です。ぱっと見たらわかると思いますけれども、ユダヤ人たちが住むはずの緑色のところは、ひとつにつながっている。一方パレスチナ人が住むピンク色のところは、分断されて3箇所に散らばっています。しかも面積はユダヤ人が住む緑色の地域の方が広い。人口はパレスチナ人、つまりアラブ人の方が多いんですよ。人口が多いのに面積は小さく、しかもバラバラにわけられている。当然反対、「なんでやねん、元々全部俺たちが住んでいたとこじゃないか」ということです。アラブ連盟の国々は「そりゃそうだ」とパレスチナ人たちの応援をします。揉めに揉めるのですが、イギリスはパレスチナ地方に早く国を作り、手放して責任を放棄したい。また、アメリカはユダヤ人国家建設を強烈に後押しします。
 結局、1948年ユダヤ人達は一方的に建国を宣言しました。こうして作られた国家がイスラエルです。話し合いがまとまらないうちに強引に国を作ってしまったわけ。これに対してアラブ連盟諸国は、「勝手に国を作るんじゃないよ」とイスラエルに攻撃を加えて戦争となります。イスラエルとアラブ諸国との間の戦争です。パレスチナ戦争、または第1次中東戦争と呼びます。中東戦争は第4次までありますのでひとつひとつを丁寧に覚えておいてくださいね。
 イスラエルは、周囲全体をアラブ人の国に囲まれているので、絶体絶命のように思えるのですが、現実にはアラブ諸国軍を撃退して戦争に勝利します。勝っただけでなく 、国連のパレスチナ分割案よりも支配地域を広げてしまった。この結果はびっくりですよね。国ができてすぐに戦争になっているのに、なぜ勝てるのか。武器すごいんです、イスラエルは。今でもそうですけれども。アメリカとイギリスがイスラエルを支援している。アメリカに住んでいるユダヤ人、ユダヤ系財閥が、イスラエルの建国を全面的に支援します。自分たちはアメリカに住んでいるけれども、イスラエルは民族の心の故郷なんですよね。ユダヤ系の人々の意見に動かされ、アメリカからは最新の武器が供給される。有名な話ですが、アメリカ大統領選挙に当選するためには、ユダヤ系財閥の支援を受けなければならないといわれています。彼らはものすごく大きな力を経済界で持っている。彼らの支援がなかったら、大統領選は資金的に勝利がおぼつかない。したがってアメリカ政府はユダヤ系財閥の意向を無視することはできない。
 そういう背景があって、アメリカの全面的バックアップを受けてイスラエルは勝利しました。常に周りをアラブ諸国という敵に取り囲まれているので、イスラエルという国家は常に戦闘的です。これは現在も同じ。
 イスラエル建国によって、土地を追い出されたアラブ人たちのことをパレスチナ難民といいます。本来の土地を追われて、ガザ地区やヨルダン川西岸地区と呼ばれる狭い地域に押し込められる。もしくはレバノンやヨルダンに移住して、難民キャンプに住む。現在パレスチナ難民の総数は500万人以上。ヨルダンの人口は660万人ですが、そのうち210万人がパレスチナ難民という状況です。
 これ以来ずっと、イスラエルとパレスチナ人の争いがつづいている。21世紀になっても解決の兆しは見えない。つい先月もハマスというパレスチナ人の組織と、イスラエル政府との武力衝突がありました。ガザ地区にイスラエルをロケットが撃ち込まれて多くの被害者が出ていた。
 1964年、難民になったパレスチナ人たちが、自分たちの政治組織を作りました。これがパレスチナ解放機構 PLO です。パレスチナ解放機構は、難民となったパレスチナ人たちの政府と考えてください。パレスチナ人という国民を率いてパレスチナ解放機構という政府がある。しかし領土がない。国家の成立には領土と国民と政府が必要とされていますが、パレスチナ人たちには領土がない。しかし、現在、国際連合ではオブザーバー参加しています(オブザーバー国家という位置づけ)。
 ユダヤ人たちは、国がなく、迫害されて、ようやく自分たちの国ができたのですが、かつて自分たちがやられたことと同じことを、パレスチナ人たちにしているのではないか。そういう非難もあります。これからどのように解決していくか分かりませんが、現在の問題として覚えておいてください。

エジプトの動向
 エジプトでは、1952年エジプト革命が起きます。エジプトは19世紀前半に、ムハンマド=アリーがオスマン帝国から自立して総督位の世襲を認められましたね。 彼の子孫がずっと総督の地位を世襲します。その間、スエズ運河の株式をイギリスに買収されて以降、事実上のイギリスの保護国となっていました。
 1922年にはイギリスから独立を認められ、総督はエジプト王となります。独立を認められたといっても、スエズ運河はイギリスのものであり、イギリスの意向を無視して独自の政策を実行することはできなかった。形の上では独立国だけども、エジプト王はイギリスの言いなりと考えて良い。そんなのではダメではないかということで、1952年エジプト軍が国王に対して革命を起こした。これがエジプト革命。王政を倒してエジプトを共和国にします。
 この革命を起こした軍人グループのことを自由将校団といいます。ナギブという人がリーダー。この後自由将校団の中で頭角を現して、大統領になったのがナセルという人物です。以前ベオグラードの非同盟諸国会議の写真で見ましたね。
 彼は積極的中立外交を推進します。アメリカチーム、ソ連チームどちらとも距離を置きますよ、という外交を目指す。いわゆる第三勢力の立場ですね。そういう中でアスワンハイダムが建設されることになります。ナイル川の上流に建設される巨大なダムで、下流の灌漑や氾濫の防止を目的としたものです。巨大なダムなので膨大な資金が必要となりました。この資金はイギリス、アメリカの支援によることになっていたのですが、積極的中立外交でナセルがソビエト連邦に接近したことに腹を立てたアメリカとイギリスは、この援助を取りやめるといいだした。
 1956年、これに腹を立てたナセルは、事実上イギリスの所有であったスエズ運河の国有化を宣言します。これに対しイギリスは、フランスとイスラエルを誘い、エジプトに軍事侵攻しました。フランスはスエズ運河株を持っていましたし、イスラエルは第1次中東戦争でエジプトと戦った敵対関係にある。この2カ国を誘ったわけです。こうして始まった戦争がスエズ戦争、または第2次中東戦争と言います(1956年)。
 軍事的には、エジプトはとてもこれらの国々に叶わなかったのですが、国際的な世論は圧倒的にイギリスを非難し、エジプトに味方をします。旧植民地が独立して旧宗主国の支配から脱するというのは、すでに世界のトレンドになっているわけです。自分の国に存在する運河を、自分の国のものだと宣言することは、イギリス人にとってはとても許せないことだったかもしれませんが、民族主義が高揚しているこの時期、エジプトの主張は当然といえば当然だったわけです。インドのネルーと中国の周恩来の平和五原則が1954年、インドネシアで開かれたアジア=アフリカ会議が1955年。こういう流れを見れば、世界がどちらに向いているかは一目瞭然です。イギリスはそれがわからなかった。賢いのはアメリカで、イギリスの軍事行動には参加せず距離を置いています。
 結局、国際的な非難に耐えかねてイギリスなどは撤退。結論からいえばこの戦争にエジプトは勝利したわけです。スエズ運河の国有化に成功したナセル大統領は、一躍エジプトの英雄、アラブの英雄、第三勢力の英雄となりました。
 エジプトの勝利はアラブ人の勝利、ということでアラブ連盟のアラブ人全体が盛り上がります。自分たちはオスマン帝国衰退以来ヨーロッパに虐げられてきたけども、ついにヨーロッパ人に勝利した、ということですね。アラブ民族主義の高揚です。
 ここで、ちょっと注意しておいてほしいのは、アラブ民族主義の高揚は、イスラーム主義の高揚ではありません。イスラーム教の立場で西洋と対峙して、宗教的に高揚するのとは違う。「アラブ人」としての民族意識です。見落としがちですが、アラブ人は全てイスラム教徒というわけではない。例えばレバノンでは半分ぐらいの人がキリスト教徒です。驚くかもしれませんが、キリスト教徒のアラブ人だって結構いるわけです。こういう宗教の違いを超えて、「アラブ人」としての民族意識が盛り上がったのだ。ということです。
 そういう意味でいうと、イランはイスラームの国ですけが、アラブ人ではない。イラン人、古い言い方ではペルシア人の国なので、イランという国家はアラブ民族主義とは関係ありません。(先日某有力新聞で、パレスチナ問題に関して、アラブの立場からイランの動向を解説する記事があって驚いた。基本的知識の欠如が広がっている?)

 2021年08月14日

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