世界史講義録 現代史編

 10 中国社会主義の展開

文化大革命

 1949年、中国共産党によって中華人民共和国が建国された。中国は中ソ友好同盟援助条約を結び、ソ連チーム、東側の一員となります。一方で台湾があって、ここに拠る中華民国が中華人民共和国と対立している。この台湾をアメリカは応援している。だから朝鮮戦争に国連軍という名前のアメリカ軍が参戦した時に、アメリカ軍が中朝国境を越えて北京まで攻めてくるんではないか、と毛沢東がビビったという話はしましたね。だから中国は、中国人民義勇軍という名前の軍隊を、朝鮮半島に派遣して国連軍アメリカ軍と戦った。この朝鮮戦争が1950年から53年まで続きました。
 今朝の新聞に、中国共産党100周年記念で習近平さんが挨拶している記事が載っていました。 今の中国は、ちょっと得体の知れないイメージかもしれない。周りの国々に対して影響力を及ぼそうとしていて、あまり評判が良くありません。しかし、建国したばかりの頃は見ればものすごく苦労している。自分たちのこの国が、潰れるのではないかと、すごく恐怖しながら国作りをしていることがわかります。今とは全くイメージが違います。
 中国が頼りにしているのは、中ソ友好同盟援助条約を結んでいるソ連なのですが、スターリン死後、ソビエト連邦は、「平和共存だ、緊張緩和だ」といいはじめる。アメリカと仲良くしていくというメッセージを発しはじめるのです。中国は「エッ!」と思う。「ちょっと待てよ」と思うわけです。アメリカは台湾を応援して、中華人民共和国を倒すと言っている。そのアメリカとソ連は仲良くしようとする。中国はこれでますますと孤立感を強めていきます。セルフイメージとして孤立無援感を深める。
 ソ連が平和共存をいいはじめてから、ソ連と中国の関係がギクシャクしはじめます。当時の中国は、ものすごい後進国です。その中国は、ソ連の技術援助で国づくりを進めようとしていた。中国からすればソ連は先進国で、第1次五カ年計画、第2次五カ年計画で工業化に成功している。世界恐慌にも巻き込まれず国家建設は進んでいる。ナチスドイツにも勝ったソ連軍。
 ソ連からは学ぶところはたくさんあるので、ソ連から多くの技術者を招いて工業化を進めていました。なのにソ連を頼りにすることができなくなってくる。ソ連が援助を切るわけではありませんが、中国としては不信感を強めるわけだ。ソ連と完全に決別するのはもう少し後ですが、この頃から中国はソ連をあまり頼りにしたくなくなる。
 中華人民共和国、国家主席の毛沢東は、何を考えたか。「こうなったらソ連を頼りにできまへんな。我が国は後進国であるが自力で工業化を進めるしかない。」こういう考え方で政策を立てました。自力で工業化を進めるという毛沢東の政策が大躍進政策。ものすごいネーミングですね。
 1958年から大躍進政策が始まります。様々な工業計画を立てます。だけどうまくいかない。地方の役人たちはうまくいかないと言ったら、自分の責任を問われるので、上に嘘の報告をあげます。「こんなにうまくいきました」と。そういう嘘の素晴らしい報告がどんどん積み上がって、毛沢東のところに上がってくる。毛沢東は「こんなにうまくいってるんだから、もっと目標を高く設定しよう」と、さらに実現不可能な計画を立てて下に下ろす。命令を下された地方の役人たちは、できていないことを、さらにやらなければならない。できていないのに「できました」ということがどんどん続いて、混乱が膨れ上がってきました。全く科学的根拠もないような工業実践、農業実践を行って、帰って生産は衰退。これに作物の不良も加わり、最終的には1000万人単位の餓死者が出た。はっきりした数字は統計自体がめちゃくちゃでわからないのですが、5000万人以上の犠牲者が出たという人もいます。
 この時期に、農村では人民公社が組織されました。社会主義的な土地制度です。土地の私有を認めずに、共同で農作業をします。人民公社は既に解体されたので、皆さんがピンとこないかもしれませんが、私が若い頃にはまだあったので、人民公社はよく聞きました。私は中学校の社会の時間に教わりました。村で人民公社という組織を作り、村人の土地はすべて人民公社の共有の土地となる。村人はすべて人民公社の社員になる。これは宣伝用の写真なので村の娘さん達が集まってみんなで楽しく作業をやっている様子です。農民は自分の土地でないところでは、一所懸命働きません。 一所懸命働いたって収穫物は自分のものにはならずに、公社のものになる。手を抜いた方が楽だとみんなが思う。これは食事の様子。人民公社の解体前になるとだいぶ様子が違ってくるのですが、この頃は食事も共同です。農民の一家が自分の家で食事をとらず、食事の時には全員が村の共有スペースに集まって、全員で食事をとる。楽しそうに食べてるように見えますが、本音は嫌ですよね。「家でゆっくり食べたいよ」と思ってるはずです。これ一家5人が共同食堂に来て食べていますが、5人だけでちっちゃく固まっていますよね。プライベートがない感じですね。現実を無視して強引に理想的な社会主義的な農業やろうとした。

 大躍進による工業化は大失敗に終わり、数多くの餓死者が出たことがわかり、1959年、毛沢東は責任をとって国家主席を辞任します。代わりに国家主席となったのが劉少奇という人物です。 劉少奇は、人民公社は無くしませんが、毛沢東がボロボロにした経済再建に取り組みます。その際に資本主義的な手法を一部取り入れたといわれています。ソ連でも、建国直後の戦時共産主義で非常に国力が落ちた後、新経済政策ネップによって経済を立て直していますよね。同じような歴史を辿っていますね。
 毛沢東は、大失敗で国家主席の座を降りているのですが、根っからの社会主義者なので、劉少奇の取り入れた資本主義的な手法がすごく気に入らない。文句を言いたいが、はっきりとは言えない。自分の失敗の尻拭いをしてもらっているわけですから。
 ここでややこしいのが、国家のトップである国家主席は劉少奇。ところが中国共産党のトップには相変わらず毛沢東が就いていることです。社会主義の国々では、共産党が政府を指導します。劉少奇も共産党の幹部なので、共産党の内部で話し合いして、意見の違いを調整して解決していけばいいのです。ところが毛沢東は根っからのパフォーマンス好き、お祭り好き。何をやるにも騒ぎを大きくして、ワーっと盛り上げたい人なんです。
 なので劉少奇の意見を変えさせるのに、党の中で話し合いをするのではなく、政治的な運動を起こし、劉少奇を失脚させようとした。しかも自分は正面に出ずに。
 どうやってやるか。若者たちに「君達、今の政治に満足しているか?社会というのが常に若者たちを抑圧するものなのだ」「中国革命が成し遂げられて社会主義になったからといっても、抑圧されている者がいないわけではない、常に権力を握った大人たちは若者たちの改革の気持ちを抑えるものなのだ」「君たち意見があるならば大人に対して反抗しても構わないのだ」、と若者たちを扇動した。
 若者たちにとって毛沢東は建国のヒーローです。そのヒーローである毛沢東が、「若者は反抗してもかまわないのだ」といえば、「そうだな」と思って、自分たちで仲間を集めてそれぞれの政治グループを作ります。これを紅衛兵(こうえいへい)と言います。ひとつだけではなく様々なたくさんな紅衛兵のグループができます。例えば北京大学の紅衛兵グループができる。〇〇高校の紅衛兵のグループができる。△△高校の紅衛兵のグループができる。時にはそういうグループがたくさん集まって一緒に行動したりもする。
 この紅衛兵たちが何をやるかというと、気に食わない大人達に文句をいいます。「お前たち大人は何をやっているのだ」と。例えば世界史の授業のやり方がひどいと思うと、紅衛兵達が授業にやってきて、 「お前の授業はなんだ。革命精神が足りない!」と教師を吊るし上げる。教師というのは生徒がおとなしく聞いていてくれるから授業ができるけれども、 皆が団結して「お前の授業がひどいじゃないか」と言われたら自尊心を打ち砕かれて、立ち直れなくなる。どんな地位についている大人もそうであって、みんなが秩序を保ってくれているから役割を果たすことができます。
 紅衛兵達は気に食わない大人達の所に行ってどんどんと批判して吊るし上げていきます。「お前が教えた事と、お前がやってることは全然違うではないか」とか、最初は大学や高校という学校の中で、生徒たちが教師や校長先生を吊るし上げました。
 これが1966年プロレタリア文化大革命の始まりです。もう授業は成立しません。高校や大学は閉鎖されます。というか、そもそも学生達は学校に来ない。こんな学校で学ぶことはもうない。我々は毛沢東のいうとおり社会から学ぶべきだと、街へ出て、日本でいえば市議会議員や市長、県会議員や県知事の所に行って糾弾して吊るし上げをする。権威や権力を持っている大人等に対して、ありとあらゆる批判を加え、糾弾します。 批判に晒された人々は自殺したり、精神を病んだりと追い詰められていきました。
 初めは、学校の先生、そこから地域の政治家へと、紅衛兵が攻撃する対象はより高い地位の、より影響力の大きい人物へと移っていきました。
 紅衛兵になっているのはだいたい高校生や大学生などの若者たちです。自分たちが集まって大人たちを責め立てると、今まで威張っていた大人たちがギャフンとなっていくのは、めちゃくちゃ快感だと思います。その感じはわかりますよね。学校も行かずに好き放題暴れまわれる。これに対して、毛沢東とその周りの人々が、「いいじゃないか、もっとやりたまえ」とお墨付きを与える。中国中がぐちゃぐちゃの大混乱に陥ります。
 毛沢東らの文化大革命グループの指導者たちは、もっと悪い奴が、もっと上にいるんじゃないかということを示唆するわけです。言われた紅衛兵たちは、そうだ、そうだ、ということで、最終的に国家主席の劉少奇に紅衛兵の批判が向いていく。ついに劉少奇は失脚。具体的には暴行監禁され、病気になってもろくな治療もされず死んでいった。それ以外にも、多くの人が殺された。何千万人という単位で人々が死んでいきました。
 批判する対象がなくなると紅衛兵のグループ同士で対立が生まれて殺しあったりする。現在の中国政府は、この時代を十年間の内乱だったといっています。これがプロレタリア文化大革命の構図です。

 当時、中華人民共和国は多くの国が承認していません。日本も台湾の中華民国を中国として承認していて、中華人民共和国とは外交ルートがありません。国交がありません。だから断片的な情報や、噂だけが中国からは聞こえてくる。「何か若者たちが暴れまわっている」ということは分かるけれども、全体の構図がわからない。何が起きているか分からなかった。しかし若者たちが元気なのはいいじゃないか、と高い評価をしている知識人も少なからずいました。ほんのわずかな情報から、中国で起きている政治的な状況を想像していたのですが、今から振り返ってみると、多くの日本の学者たちも間違えていたようです。現在になっても中国政府が全ての資料を公開しているわけではないので、どれだけ酷いことが行われていたからまだまだわかっていません。多分、現代中国史における最大の恥部のひとつだと思います。
 『白い巨塔』とか『華麗なる一族』など、スケールの大きな小説を書く山崎豊子という人がいますけれども、この人が『大地の子』という小説を書いていて、これが20年以上前に NHK でドラマになった。 昨日から BS 放送で再放送されています。第二次世界大戦末期に満州地方に取り残された日本人の子ども、中国残留孤児が主人公。その主人公が中国人の養子として中国で成長する物語ですが、ちょうど文革時代が背景になっているのでこれを見ると文化大革命時代の雰囲気が分かると思います。上川隆也が主人公役。多分このドラマがデビュー作で、まだ無名だったのでテレビを見ている人達の多くは、上川隆也を中国人だと思っていました。中国語ペラペラで芝居をやっていましたから。
 これは文化大革命時代のポスターです。「造反有理」と書いてある。日本語に訳すと「反抗するには理由がある」。 若者が大人に反抗するのは理由があるのだから、それはいいことなのだ、と毛沢東がいっているわけです。こちらのスローガンは「革命無罪」。 世の中をひっくり返しても構わない、というメッセージです。
 これは黒竜江省のハルビンで、一番偉い第一書記が若者たちに引きずり出されて糾弾されている写真です。彼の周りにいるのは全て紅衛兵です。「私はひどい人間です」みたいなことを書いた三角帽子をかぶさせられて、いかに自分が悪い人間であったかということを喋らさされている。こうやって自分を批判しないと、紅衛兵に何をされるか分からない。 屈辱ですよね。中国全土でこんなことが行われた。こういう中で劉少奇は失脚していったのです。
 劉少奇のグループに属する人々の多くはこの時に失脚していきました。有名なケ小平もこのときに失脚。ケ小平の息子は、建物の上の階から紅衛兵に落とされて、半身不随になった。落とされた理由はケ小平の息子だからです。無茶苦茶です。歴史ある文化財もこの時代にたくさん破壊されたと。周恩来も紅衛兵から狙われます。しかし、文革の時代、政府はほとんど機能していない。この中国社会をかろうじて維持して、政府を維持しているのは周恩来。周恩来を失脚させたら中国はどうしようもなくなるということは毛沢東も分かっているので、なんとか周恩来への攻撃は止めさせたということらしい。
 これは1966年、全国から紅衛兵達が北京に集まって、集会を開いた時の写真。毛沢東の言葉を抜粋した聖書みたいな本『毛沢東語録』をみんなが持っている 天安門広場前で毛沢東の閲兵?を受けて大いに盛り上がっている写真です。

 劉少奇が失脚した後も政治の混乱は続きます。林彪という将軍が毛沢東に後継者として指名されたりするのですが、外部からはうかがい知れない権力闘争があったようで、林彪は亡命しようとして、彼が乗った飛行機がモンゴルに墜落して死んだりする。不思議な事件が相次ぎます。
 大混乱の中で、政権中枢で権力をふるい始めたのが毛沢東夫人であった江青です。第二次世界大戦前は上海で女優をやっていた。若い頃の写真を見ると綺麗な人です。中国共産党が延安を根拠地に活動している頃、江青は延安にやってきて既に結婚していた毛沢東を、その妻から奪って結婚した。文化大革命で若者たちが暴れまわっている中で、毛沢東の権威を借りて江青が威張りはじめた。さらに混乱に輪をかけたと言われています。毛沢東はというとこの頃からちょっとボケ始めているようで、江青の言うがままになっていたようです。

中国の外交

 前にも言いましたが、1950年代後半から中国とソ連がじわじわと対立をし始めます。中華人民共和国は国際連合から排除されていたのですが、 さすがにこれだけ大きな国を国際社会が無視し続けるのは問題だということになってくる。それが1960年代後半ぐらいから国際的に大きな支持を得始めます。
 その結果、1971年に中華人民共和国が国連に加盟しました 。代わりに中華民国台湾は国際連合から除名されました。現在もその状況が続いています。
 アメリカと中華人民共和国は長い間対立していました。 アメリカは台湾を支援していましたからね。しかし中華人民共和国が国連に加盟して、アメリカも中華人民共和国を無視しつづけることができなくなる。後から述べますが、ベトナム戦争の状況の変化など、国際状況も変化してくる。そして1972年、アメリカ大統領ニクソンが突然中国を訪れます。教科書では「ニクソン訪中」と出てくる世界史上の事件です。電撃的な訪問でした。それまでアメリカは、中華人民共和国を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌って無視していたわけですから。水面下では準備をしていたのだと思いますが、政治的ニュースとしては突然の訪問でした。世界中にショックを与えた。この写真は、中国の空港に降り立つニクソン大統領を、周恩来が迎えているところ。
 これを見て、当時の日本の首相田中角栄も中国に行きました。この写真は田中角栄と毛沢東が握手しているところ。この写真を見ると、毛沢東はかなり老いていますね。もうボケはじめていると思います。
 そして1978年には日中平和友好条約が結ばれました。日本も台湾と国交を断絶する。田中角栄の中国訪問ぐらいから、ようやく中国の情報が本格的に日本に入ってくるようになった。 僕は大学で中国史の研究室にいたのですけれど、中国の歴史の研究をしている大学教授の誰も中国に行ったことがなかった。 国交がないから行けなかった。1978年から、ようやく頻繁に行けるようになった。僕が初めて中国に行ったのは1980年代の初めでしたけれども、まだ一般の観光旅行は許されていなかった。事実上の観光客であっても、個人で行くことはできなくて、友好訪中団を組織しないと行くことはできなかった。そこで僕は某大学が結成した友好訪中団に参加して初めて中国に行きました。この頃は観光客がまだ滅多に来ない時期だったので、地方都市に行くと外国人は珍しい。このとき、秦の始皇帝が都を置いた咸陽という街の博物館に行った。一般的な観光ルートには入っていない街です。珍しかったんだろうね。 僕たちが観光バスから降りると、あっという間に回りは中国の人たちの人だかりになりました。当時の中国の人たちは、みんな老いも若きも男も女も真っ黒な人民服といわれる服を着ていた。ファッションも何もない時代だった。
 話を戻しますけども、田中角栄が中国に行って仲良くなったので、友好の証として初めてパンダが上野動物園に送られてきた。カンカンとランランといった。今は白浜のアドベンチャーワールドにたくさんいますけれども、当時は大騒ぎでした。パンダを見るために何時間待ちの列ができて、ニュースになっていました。パンダ好きの黒柳徹子さんが、パンダ愛をハイテンションで語っていた記憶があります。
 文化大革命のその後については、また後でやります

 2021年08月21日

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