世界史講義録 現代史編

 12-1 ベトナム戦争(上)

 夏休み前は、公民権運動のところまでやったと思います。アメリカは、自由と民主主義の国といわれていますが、まぁ実際にそういう面もあるのですが、内側に入ってみると有色人種差別などが激しい。そういうことが続いています。今でも、潜在的にはそういう対立は続いているとは思います。有色人種に対する人権をきっちりと保障しようという公民権運動があった。ケネディは公民権法に賛成をしていたのですが暗殺され、変わって大統領になったジョンソン大統領の時に、公民権運動が成立したという話をしました。
 しかし法律ができたからといって、差別的な心を持っている人の気持ちがすぐに変わるわけではないので、有色人種と白人の間のトラブルはずっと続いていきます。キング牧師も暗殺されたと書いたと思います。
 ちょうどその頃に、ベトナム反戦運動が盛り上がっていて、1960年代後半は公民権運動とベトナム反戦運動がリンクして騒然とした。ということで、ベトナム戦争の話です。

 1954年、インドシナ戦争が終結、フランス軍撤退後、ジュネーブ休戦協定によってベトナムは南北に分けられた。北は社会主義でホー=チ=ミンが指導者。南はバオダイが国家元首となっている。バオダイは、かつて阮朝越南国の王様だったというだけで、特に政治的な手腕があるわけではない。南ベトナムをしっかりと統治する力がない。
 だから、ジュネーブ停戦協定の約束どうり、南北統一選挙を実施すれば、北を中心にベトナムが統一されることは間違いない。ホー=チ=ミンは、社会主義者というよりは、民族独立闘争の英雄として、ベトナムの人々から広い支持を得ていたからです。統一選挙を実施して、北を中心にベトナムが統一されれば、ベトナム全体が社会主義となる。

   ここで、アメリカが登場します。アメリカは社会主義勢力の拡大を抑えようと、封じ込め政策をやっている。だから統一選挙によるベトナム統一を阻止したいと考えた。こうして、アメリカは南ベトナムにちょっかいを出し始めます。
 バオダイでは駄目だと考えたアメリカは、南ベトナムの軍人にクーデターを起こさせて、新しい政権を作らせた。この軍人が、ゴ=ディン=ジェム。ゴが苗字です。彼がバオダイを倒して大統領となった。
 アメリカの後押しで大統領となったゴ=ディン=ジェムは、南北統一選挙を拒否します。選挙をすれば社会主義になってしまいますからね。ジュネーブ協定の約束を反故にして、統一選挙を願うベトナム人の心情を無視するのだから、ゴ=ディン=ジェムは民意を無視する独裁者として振る舞わざるを得ない。アメリカの支援をたよりにできるのだから、民意が反発してもゴ=ディン=ジェムは、気にもとめない。そういう政治体質を持ちます。

 この頃、世界で独裁国家はたくさんあった。カストロが革命起こす前の、キューバのバティスタも独裁政治家でした。独裁政治であっても、社会主義勢力を抑え込んでくれるのであれば、アメリカはそれを支援した。各地の独裁者たちは、アメリカの支援を受けるアメリカの支援があるので、国民の支持を得る必要がない。国民ではなく、アメリカの顔色を伺いながら政治をする。そして、国内の様々な社会運動を抑圧していく。
 また、自分の身内や仲間たちを、政府の高官などに抜擢します。当然、政権は腐敗します。独裁国家にありがちなことです。国民のチェックがないと、政治は必ず腐敗する。「あの大統領はこんな悪いことやっている」、「嘘をついているあの政治家を次の選挙で落としてやれ」とみんなが行動できるような制度が機能していれば、どんな悪い政治家でも一応国民にはいい顔をする。そうしなければ、権力は維持できない。それが民主主義国家です。
 しかし独裁政治家は、国民の方を向かない。アメリカの顔色ばかり伺っている。だから腐敗してきます。ゴ=ディン=ジエムは、まさにそういうパターンの独裁者でした。選挙制度が機能していないと、選挙でこういう政治家を権力の座から降ろすことができない。独裁者と戦うには、武装闘争しか手段がない。
 こうして、南ベトナムにゴ=ディン=ジェム政権と戦う武装闘争組織が生まれます。これが南ベトナム解放民族戦線です。これはベトナムの地図ですけれども、南ベトナムの領土の中で、紫色で塗ってある地域がある。これは南ベトナム解放民族戦線が掌握している地域で、解放区と呼ばれていた。要するに、南ベトナムの国の中に、自分たちの支配地域をつくっていった。解放区以外にも、腐敗した南ベトナム政権に愛想を尽かして、南ベトナム解放民族戦線に協力する人も多くいる。アメリカがゴ=ディン=ジエム政権を支援するように、北ベトナムは解放戦線を支援しました。派兵はせず、物資を支援しているだけです。
 南ベトナム全土は、政府軍と解放戦線との内戦状態になる。南ベトナム政府軍は弱体で、解放戦線を鎮圧することができない。そこで南ベトナム政府軍を支援するために、アメリカは軍事顧問団を送り込みます。それでも事態は改善しないので、やがてアメリカ軍を南ベトナムに送り込んで、直接解放戦線と戦うようになります。徐々に派兵する兵士の数が増えていきました。
 アメリカが南ベトナムで行った民族解放戦線との戦いを、ベトナム戦争というのですが、この戦争の始まりが何年かははっきりしません。軍事顧問団を送り始めた時、最初に地上軍を派兵した時、本格的な派兵に踏み切った1963年、または北ベトナムに空爆を始めた1965年とする考え方もあります。
 アメリカが南ベトナムに軍隊を送り込んでいるのは、形の上では南ベトナム政府のゴ政権が「援助して下さい」といっているかです。つまり、南ベトナムで軍事行動をしている正当な理屈はある。けれども、北ベトナムは明らかには違う国なので、ここに爆弾を落とすということは戦争といえる。だから、「北爆」開始の年をベトナム戦争のはじめとする考え方もあるわけです。

 以上がベトナム戦争の概略です。以前にも話しましたが、中国の周恩来とインドのネルーが、平和五原則を発表し、「新興国に、旧宗主国・先進国がちょっかいを出すな」といった。バンドン会議も、同じことを主張した。第1回非同盟諸国首脳会議も同じような主旨の会議でした。アメリカの行為は、明らかにこれに反する。ベトナム戦争は、明らかにアメリカのちょっかいです。
 だからアメリカは、南ベトナムに対する介入は悪くないのだ、社会主義を広げようとする北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線が悪いのだと主張して、自分たちの正しさを訴えた。そのため、新聞記者やカメラマンがアメリカ軍と一緒に行動して取材することを、積極的に認めました。いわゆる戦場カメラマンが、アメリカ軍に帯同して様々な写真を撮ってくるのは、この戦争が最も盛んでした。多くのカメラマンが戦場に赴きました。だから、この戦争は映像が豊富です。そして、その結果、アメリカの意図とは逆に、ベトナムで起きていることを世界に知らしめ、アメリカを追い詰めることになった。
 まとめておきます。ゴ=ディン=ジエム政権を、アメリカが支援する。しかしゴ=ディン=ジエム政権は、国民が待ち望んでいた統一選挙を拒否し、また土地政策に失敗します。権力者の蓄財や、賄賂の横行など政権の腐敗も甚だしい。また、ゴ=ディン=ジエムはキリスト教徒で、よせばいいのに、仏教を弾圧する。仏教徒の多いベトナム人たちは、そういう政府をに対して、益々批判的になります。南ベトナム政府は、まともな選挙をやらないので、抵抗するには武装闘争しかない。ということで、ますます南ベトナム解放民族戦線は国民の支持を得ることになる。そして、北ベトナムは解放戦線を支援する。そういう構図です。

 1965年以降、アメリカは解放戦線を支援する北ベトナムに爆弾を落とす、いわゆる北爆を開始して、戦争は一段回規模が大きくなるのですが、アメリカは戦争の最後まで、地上軍を北ベトナムには送り込みませんでした。それは、後戻りのできない段階に戦争を大きくする行為だったからです。
 なぜならば、北ベトナムの北には中国がある。朝鮮戦争の時に、国連軍の名前でアメリカ軍が朝鮮戦争に介入した際、中国は中国人民義勇軍を組織して北朝鮮の応援に来ましたね。この経験から考えると、アメリカ軍が北ベトナムに地上軍を送ると、中国軍が北ベトナムの支援にやってくる可能性は十分にある。そうすると、中国対アメリカの戦争になる。北ベトナムも中国も、一応社会主義陣営なので、ソ連も黙っていないかもしれない。アメリカとしては、そこまで戦争を拡大したくはなかった。北ベトナムに爆弾を落とすだけで、それ以上のことはしない。それが北爆の意味です。

 2021年09月04日

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