世界史講義録 現代史編

 14 ソ連東欧社会主義圏の停滞

 西側先進資本主義諸国が、ドル=ショックとオイル=ショックによって経済の揺らぎが見えてきた。では東側社会主義諸国はどうかというと、こちらにも問題が見えてきました 。
 ソ連東欧社会主義で問題になっていたのは、経済の停滞です。また政治・経済・文化に渡る中央集権制に伴い、硬直化した官僚制の弊害を指摘されていました。
 フルシチョフが失脚した後、ソ連の指導者になったのがブレジネフです。20年近く権力を握り続けた。特に、特徴のある人ではない。まさしく党官僚。一党独裁は変わりません。ソ連共産党の官僚組織の中で出世してきた党官僚です。このブレジネフ時代にソ連経済の低迷がはっきりとしてきました。
 前にも話したように、社会主義の経済は計画経済で、政府が鉄鋼を何百トン作ります、自動車を何百万台作ります、こういう形のズボンを何万着作ります、という計画を立てて、これを各企業に降ろし、企業は政府に命じられた通りにモノを作っているだけです。自分のいる企業で独自の商品を開発して、たくさん売って儲けようというモチベーションは全くない。新しい商品は生まれない。たとえば自動車も、古い型の同じ自動車を作っているだけ。モデルチェンジはない。性能向上も基本的にない。
 当時ソ連の若者たちの間ではアメリカのジーンズがすごく人気でした。1970年代・80年代のソ連の若者たちはジーパンが格好良いと思ったのですね。しかし、ソ連ではジーパンは作らない。資本主義社会の堕落した文化の象徴がジーパン、ということになっていた。ジーパンに限らず、あらゆる品物は、政府が認めなければ、どの企業も作らないし、需要があっても、計画以上に作ることはない。常に品不足で、食料品店には常にお客さんが長蛇の列を作っていた。売れても売れなくても、店員には賃金が支払われるから、客への対応は横柄でした。
 そんなこんなで、経済は停滞して、発展がない。これに対して市場経済の資本主義国では、新しい商品がどんどん開発され、消費者のニーズに合わせて発展していく。この差がどんどんとあらわになってくるのが、1970年代から80年代にかけてです。
 こういう中で、政治的自由を求めてチェコスロバキアで反ソ連暴動が起きます。1868年、「プラハの春」と呼ばれる事件です。今はチェコとスロバキアという二つの国に分かれていますが、当時はくっついていて、チェコスロバキアという一つの国です。その首都プラハで反ソ暴動が起きた。
 当時のチェコスロバキアの指導者はドプチェク。彼はこの動きに同調した。そこにソ連軍がやってきて、市民の反ソ暴動を鎮圧しました。たくさん写真がありますので、また見ていきましょう。これは、ソ連軍の戦車がプラハに入ってきているところ。戦車に乗っているソ連兵に食ってかかっているプラハ市民。燃えているソ連の戦車。デモをしているプラハ市民。相変わらず、東ヨーロッパの社会主義国の人々に政治的な自由を認めないという、ソ連の姿勢は変わっていないわけです。これは当時、街の壁に書かれた落書きです。この星のマークは、ソ連の象徴。その横にナチスドイツのハーケンクロイツが並べて描いてある。ハーケンクロイツの上には、「1939」と書いてあります。これは、第二次世界大戦前夜、チェコスロバキアがナチスドイツに侵攻された年です。星のマークの下には「1968」と書いてある。今、行われている「プラハの春」の年です。要するに、ナチスドイツとソ連が同じだと訴えている、そんな落書きです。

 一方で、緊張緩和(デタント)はゆっくりとですが、進行しています。前にキューバ危機で、ソ連とアメリカが核戦争直前まで行ったという話をしました。危機が過ぎた後、米ソ両国首脳は、本当にビビってホットラインが設置されたという話もした。また、その後に部分的核実験停止条約が結ばれたことも話しました。
 この後、核兵器削減の交渉が始まっていて、ゆっくりとですが進んでいます。これは緊張緩和(デタント)といいます。
 1968年、核拡散防止条約が結ばれます。アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国の五大国以外の国が、核兵器を持つのを禁止します。五大国だけが OK という、ちょっと身勝手な条約なのですが。アメリカやソ連にとっては、自分たちが持っているのはいいけれども、核兵器を持つ国が10カ国、20カ国と増えていったら怖いよね、わけのわからない独裁国家が核兵器を持って、やたらめったら使い始めたら、めちゃくちゃになってしまうので、核兵器を持つ国は自分たち五カ国だけにしようという条約です。まあ、核保有国が少ないに越したことはないです。実際には、これを無視してインドやパキスタン、イスラエルや北朝鮮やが、核兵器を持つようになるのですが。
 アメリカとソ連との間では、核兵器を減らす交渉が始まります。1972年、第一次戦略兵器制限交渉(SALT 1)。1987年には中距離核戦力全廃条約。写真もあります。実際にアメリカとソ連が、核兵器を解体する。お互いに監視団を送り込んで、その監視の中で核ミサイルを解体しているところです。こんな風にして核兵器の数を減らし始めた。
 素晴らしいことだ、と思うよね。ですが実際のところは、いらない核兵器がたくさんある。必要以上にたくさん作ったって、それを維持するだけでお金の無駄。アメリカもソ連も、財政が厳しくなってくる。うちもこれだけ減らすから、君もこれだけ減らさない? オッケーオッケー、ということで、古くなって、もう使わない核兵器を解体して減らしていく。特にミサイルの距離によっていらないものが出てくるようです。
 ここからは余談になりますけども、かつては陸上にミサイル基地を作って、そこから敵国を打つような戦略をとっていました。しかし、ミサイル基地を先に叩かれたら無力化されてしまいます。そこで、地下にトンネルを掘って、ミサイル発射台を動かして、どこから発射されるかわからないようにする。そんな時期もあったのですが、やがて、そういう作戦も時代遅れになっていく。現在、もし核戦争になるならば、陸上にミサイル基地があっても多分出番はない。戦いの主力は潜水艦です。原子力潜水艦は、何ヶ月も海の底に潜っていることができる。どこにいるのかわからない。この潜水艦が、敵国のそばまで近づいて、海中からミサイルを撃ち出す。こういうふうに戦略が変化すると、不要なミサイルが出てくるのだと思います。
 入試的・教科書的には、核兵器をなくす歩み寄りもあった、ということです。それ自体はいいことだけれども、穿った見方をすれば、経済的にアメリカもソ連も、余計な核兵器を持っていることが負担になっている。ソ連は経済が停滞しているし、アメリカはベトナム戦争でお金がない。お互いに無駄なものは減らしていこう、ということです。

 デタントでソ連の話から外れましたが、1979年、ソ連がアフガニスタンに派兵します。今話題のアフガニスタンです。資料集にアフガニスタンの年表が付いていますね。ちょっと俗な話になりますが、今は8月です。12月ぐらいに大きな事件が起こっても、来年の入試問題には間に合わないかもしれませんが、今起きている事件は、来春の入試にちょっと影響があるかもしれない。現在の話が直接入試に出ることはないでしょうが、アフガニスタンの歴史はちょっと注意してもいいかもしれませんね。
 アフガニスタンは、昔から他の国の支配を受け付けない、支配するには難しいところだったようです。インドを攻略したイギリスがやって来て、アフガニスタンに戦争仕掛けます。 第1次アフガン戦争というのがあります。これは、失敗するのですが、1878年の第2次アフガン戦争が1880年まで続きます。この時にイギリスはアフガニスタン攻略に成功し、アフガニスタンはイギリスの保護国になります。19世紀末に、アフガニスタンはイギリスの支配下に入ったわけです。
 しかし、1919年、第一次世界大戦の直後、第三次アフガン戦争が起こって、アフガニスタンは独立を回復します。アフガニスタンの独立心の旺盛さ、ここを支配することの難しさがわかってもらえればいいと思います。完全な内陸国で、海に接していない。陸上交通の十字路と言われていますが、国土は山岳地帯で、谷筋沿いには様々な政治勢力が存在している。日本だったら東京を制圧すれば、日本中が支配下に入るかもしれませんが、アフガニスタンの場合は、首都のカブールを制圧しても、山の向こうの谷の人々には、あまり影響を与えられない。全体を制圧するためには、色々な地域の権力者たちを、ひとつひとつ丁寧に制圧していなければならない。だから、全体を統治するのはすごく難しい。各地域に、ずっと軍隊を派遣しつづけて、反抗勢力を抑え続けなければいけない。お金と人員をかければ、それは可能かもしれないが、それをやってどれだけの利益があるのかというと、別段なにもない。苦労して支配しても、さほどの見返りはないので、第三次アフガン戦争でアフガニスタンの人々が反乱を起こすと、イギリスは無理をせずに撤退したわけです。

 以後ずっとアフガニスタンは独立を続けていた。1973年、クーデーターが起こって国王が追放され、共和制に移行します。アフガニスタン全体を束ねる王がいなくなる。この後、様々な地域の政治グループによる内戦状態に突入します。戦国時代になったと思ってください。そして、1978年にカルマルという人の率いるグループが政権を掌握します。カルマルは社会主義者だったので、ソ連に接近。カルマル政権は親ソ政権となります。
 ところがこのカルマル政権の統治も安定せず、各地で様々で武装勢力の反乱が起きる。そこで、カルマル政権はソ連に支援を求めた。これに応じて、1979年、ソ連軍がアフガニスタンに入る。これがいわゆるソ連アフガニスタン侵攻と呼ばれる事件です。南ベトナムのゴ=ディン=ジェム政権が、解放戦線のゲリラを抑えるためにアメリカに助けを求めたことと非常に似ている。アメリカ軍が、南ベトナムで解放戦線を制圧できなかったのと同じように、ソ連軍はアフガニスタンで各地域の反カルマル武装勢力を制圧することができない。そのまま、アフガニスタンの内戦から撤退できなくなりました。
 ニクソンがベトナム戦争から撤退したように、後に、ソ連にゴルバチョフという指導者が登場し、アフガニスタンから撤退するまでの間、ソ連はアフガニスタンで戦闘行為を続けていて、国際社会から非難を浴び続けました。戦争にはお金がかかるし、人命も損耗する、国際社会から非難を浴びるしで、いいことはひとつもないのだけれども、一度始めた戦争を止めることはなかなか難しい。アメリカがベトナム戦争で力が弱まったのと同じように、ソ連もこのアフガニスタン派兵で弱体化していきました。

 余談になりますが、アフガニスタン派兵の翌年、1980年にモスクワオリンピックが開催されました。社会主義国初のオリンピックということで、ものすごく話題になっていたのですが、残念なことにアフガニスタン派兵が起きたので、西側諸国はソ連を非難してモスクワオリンピックをボイコットしました。アメリカがボイコットしたので、日本もボイコットした。このオリンピックを目標に頑張っていた日本人選手達は、 IOCの 不参加決定を聞いて泣いてました。非常に印象に残った事件でした。オリンピックは、政治とは無関係といいますが、全然無関係ではありえませんね。
 モスクワオリンピックの四年後は、アメリカのロサンゼルスオリンピックでした。この時に、モスクワオリンピックをボイコットされた仕返しに、ソ連はボイコットした。東ドイツやポーランドなど東欧社会主義諸国もこれに追随した。ソビエトや東ドイツなどは、当時はスポーツが強くて、有力な選手がたくさんいました。東側の選手がボイコットしたので、ロサンゼルスオリンピックは金メダルが取りやすいといわれた。同様に、モスクワオリンピックも、アメリカなどが参加していませんから、同じことが言えますが。
 ちなみに、ロサンゼルスオリンピックの時に、商業主義を導入しました。プロ選手の参加を認めたのもこの時から。スポンサーにお金を出してもらう。スポンサーはその見返りとしてオリンピックのロゴを使って宣伝をしてもよい。また高い値段で放映権料を売る。これ以来、オリンピックは商業主義の中にあります。今回の東京オリンピックは、新型ウイルスの流行という特殊事情がありましたが、トヨタ自動車が直前になって宣伝を止めました。商業主義も曲がり角に入きていると思います。

 話を戻しますが、ソ連がアフガニスタンで泥沼にはまる。アメリカは、ソ連軍が困れば困るほど都合が良いので、カルマル政権およびソ連に抵抗しているアフガニスタンの各武装勢力に支援をします。一方、イスラーム教徒には、ムスリムはウンマという共同体の一員、国境を越えてイスラームはひとつだという意識がある。この意識によって、ソ連と戦おうというイスラーム戦士たちが、イスラム圏各地からアフガニスタンにやってきていました。ジハードです。イラクやサウジアラビア、エジプトなど様々な地域から戦士が集まってきます。そういう戦士たちの武装組織にも、アメリカは援助をしていました。
 先の話をすると、ゴルバチョフがソビエトの指導者になった時に、アフガニスタン派兵は何の利益もないとして、撤兵を決めました。ソ連軍が手を引くと同時に、カルマル政権は崩れて、数ある武装勢力の中の一つだったタリバンが、アフガニスタンの政権を掌握しました。現在、タリバンは、ニュースでは悪者のように言われていますが、元々アメリカが援助していたのです。しかし、ソ連軍が撤退してしまえば、アメリカとしては支援する必要がない。そこで、支援を打ち切った。
 アフガニスタンでアメリカによって支援された武装勢力の一つに、アルカイダもありました。サウジアラビア人であるアルカイダの指導者、ビン=ラディンは、アフガニスタンに潜伏していて、アメリカ軍によって殺されましたが、アフガニスタンにいたのは、ソ連と戦うためにアフガニスタンに来ていたからですね。元々は、彼もアメリカの援助を受けていたといわれています。この辺の話は、オセロゲームのように、黒と白がポコポコとひっくり返っていくので、一体どこに視点を置いたらよいか分からない状態ですね。前後関係を調べれば調べるほど、絡み合う因果がほどけなくなります。

 2021年10月08日

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