世界史講義録 現代史編

 17 東欧社会主義圏の解体

 1985年、ソ連に新たな指導者が就任しました。ゴルバチョフ書記長です。
 ソ連の指導者を振り返っておくと、レーニンが死んだのち、スターリンが独裁者となる。スターリンの死後、フルシチョフがスターリン批判を行い、平和共存路線をかじを切ります。そのあと重要な指導者はブレジネフ。官僚的で、スターリンやフルシチョフほど強烈なイメージはないが、20年近く最高指導者の地位にあった。フルシチョフよりはスターリンに近いイメージ。チェコの「プラハの春」に介入したのも、アフガニスタン派兵をおこなったのもブレジネフ時代です。スターリン時代ほど暗黒なイメージではないのですが、国内での言論の自由もなかった。
 その間に、ソ連経済が西側資本主義経済とくらべて停滞していきます。長期政権が経済の停滞を招いただけではなく、ソ連政治の停滞、悪しき官僚化が進行した。
 ブレジネフが1982年に死去したあと、そのあとを継いだ指導者は高齢で短期で死去、そのあとの指導者も短期で死去します。長いブレジネフ時代に指導者層はみな高齢化していたのです。
 そしてそのあとに、若いゴルバチョフが登場します。彼は停滞したソ連の改革に積極的に取り組んだ。
 この段階で、同じ社会主義の大国であった中国は文化大革命の混乱を収束させ、ケ小平の指導の下、改革開放路線で市場経済を導入し経済発展を軌道に乗せつつあるわけです。
 ソ連でも改革を、と思うのはわかりますよね。彼の改革は当時、ロシア語のままで世界に紹介されました。ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)です。自ら情報公開を言うだけあって、世界に向けても積極的にソ連の改革を発信しました。ヴェールの向こうで何をやっているかわからないような、それまでのソ連の指導者とは明らかに違った。西側の指導者のようでした。グラスノスチ(情報公開)とは、官僚化しすぎてセクショナリズムに陥ったソ連の行政の風通しをよくして、改革を推し進めようということです。
 かれが書記長に就任した翌年、1986年、チェルノブイリ原子力発電所で大事故が発生した。原子炉が吹き飛んで、はるか上空まで放射性物質が吹き上げられた。当時ジェット気流に乗って日本にまで放射性物質がやってくると報道されました。ちょうどゴールデンウイークで、雨が降ってきて、このなかに放射能が混じっているのかなあと思いながら傘をさして外出した記憶があります。
 ゴルバチョフにとっては、この事故は全力で対処しなければならなかったのですが、最高指導者の彼のもとに事故情報がなかなか上がってこなかったらしい。官僚による縦割り行政のセクショナリズムが原因です。この経験が、グラスノスチの重要性を一層思い知らされることになり、彼の改革への姿勢は加速します。
 1988年、ゴルバチョフはベオグラード宣言で、東欧社会主義諸国に対する指導性を否定します。これまでも、ポーランドのポズナニ事件やハンガリー事件、プラハの春など、東欧諸国で改革運動がおこり、反ソ感情が高まったり、ソ連圏からの離脱の動きがおこると、ソ連軍が武力によってこれを制圧する事態が何度かあったわけですが、これからはもうそんなことはしないということです。ありていに言えば、ソ連はソ連自身の改革で手一杯なので、もう東欧諸国は勝手におやりください。一切関知しませんということです。
 このソ連の姿勢の変化は、ものすごい変動を引き起こし、翌1989年には、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアで共産党政権が崩壊し、市場経済に移行しました。雪崩を打って、社会主義圏が崩れていきました。
 そして象徴的だったのが、1989年、ベルリンの壁の崩壊です。市民たちが壁を壊し始める。東ドイツ当局はソ連に助けを求めたけれど、ソ連はこれを放置したといわれています。壁がなくなり、東ドイツ市民が西ドイツに自由に行くことができるようになると、あっというまに東ドイツ政権は崩壊して、1990年ドイツは統一を取り戻しました。事実上、西ドイツによる東ドイツの吸収でした。

 ポーランドに関してちょっと補足をしておきます。ゴルバチョフ登場の前になりますが1980年にポーランドで自主管理労組「連帯」という組織が生まれています。名前の通り労働組合です。
 理論的に言うと社会主義の国に労働組合があるのはおかしいのです。労働組合というのは資本主義社会のもとで労働者の権利や暮らしが圧迫されるため、資本家に対抗するために結成されるものです。
 社会主義国家では、労働者は十分な賃金を支払われ安全な労働環境が整い、十分な休みも与えられ幸せに暮らしているはずなので、待遇改善を要求する労働組合はいらないはずなのです。だから社会主義の国では労働組合はなかった。なかったというか、作ることが禁止されていた。
 でも現実には、理想的な社会や国家といわれてても、人々からは様々な要求が生まれてくる。だからポーランドで労働組合が生まれた。政府は認めないので勝手にやってますということで自主管理という名前がついています。自主管理労組「連帯」は一旦は解体されますが、ゴルバチョフ登場後の1986年に再結成されて活動を続けていた。
 この組織がポーランドの改革の中心になったと考えても良いでしょう。自主管理労組「連帯」の議長がワレサで、この人は社会主義が崩壊した後のポーランドの最初の大統領になっています。
 東欧諸国における社会主義の崩壊は、概ね平和的に行われたのですが大混乱になったのはユーゴスラビアです。ユーゴスラビアはスラブ系の様々な民族を統合した国でした。ティトー存命中はまとまっていたのですが、ティトーが死去し社会主義というは枠がなくなってしまうと、一挙に様々な民族集団や宗教集団に分裂して内戦状態となりました。今は落ち着いているようですが長い内戦が続いて、国際ニュースの最大の話題となった時期がありました。内戦を経て旧ユーゴは、スロヴェニア、クロアティア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、コソヴォ、マケドニアに分裂しました。
 ルーマニアでは社会主義政権下において独裁政治を行っていたチャウシェスク大統領が処刑されています。指導者が処刑されたのはルーマニアだけです。大群衆の前で演説している時に群衆がチャウシェスクに対してブーイングをする。権力者の神通力が効かなくなったその瞬間をカメラがとらえていて世界中に報道されて有名になりました。

 ゴルバチョフには、資本主義国のアメリカと対立する考えが全くないのははっきりしているので、アメリカのレーガン大統領とは何とも会談を重ね、さらにレーガンの後を継いだ父ブッシュ大統領と1989年マルタ宣言を発表し、世界に向けて正式に冷戦の終結を宣言しました。
 1989年は東欧社会主義諸国崩壊、ベルリンの壁崩壊の年であり、冷戦が正式に終結した年としてしっかりと覚えておいてください。

 さてソ連国内の話に戻りましょう。
 リトアニア、エストニア、ラトビアのバルト三国は、ソ連の一部だったところです。この3国がゴルバチョフの改革をみて、 ソ連邦から離脱して独立したいと主張し始めた。ソ連の正式名称はソビエト社会主義共和国連邦であって、形式的には多くの社会主義共和国が集まっている連邦国家です。そのうちの3カ国が連邦からの離脱を主張したわけです。
 ゴルバチョフはこれを認めてしまいます。こんなことをどんどんと認めていたら、様々な共和国が独立していってソ連がなくなってしまうではないか、と考えたのがソ連共産党の保守派グループです。ゴルバチョフに政治を任せておいては、ソ連共産党の指導力がなくなり、ソ連がなくなってしまうと考えた。そこで共産党保守派グループはゴルバチョフを拉致監禁した。いっときは、ゴルバチョフの生死も分からない状態になって、世界的な大ニュースとなった。
 改革を進めてきたのはゴルバチョフなので、保守派がゴルバチョフを粛清して権力を取り戻したら、すべての改革は取り消され、ソ連を昔のように戻すかもしれないと、多くの人は危機感を抱いた。
 このようなソ連共産党保守派の行動を許すべきではないと、ロシア市役所前から市民に呼びかけて、人々を結集した人がいます。これがモスクワ市長だったエリツィンです。もし共産党保守派が権力を取り戻したらエリツィンも必ず殺されてしまうだろうから、結構勇気のいる行為でした。 しかしエリツィンを中心に人々の反保守派感情がすごく盛り上がったのに恐れをなして、共産党保守派は自分たちの計画を諦めて、ゴルバチョフを解放しました。
 しかしゴルバチョフが生きてモスクワに帰ってきた時には、彼はすっかり指導力を喪失しており、人々はゴルバチョフではなくエリツィンを新たなロシアの指導者と考えるようになっていました。
 そしてエリツィンは、ロシア共和国はソ連から離脱をすると主張しました。これに呼応するように、ウクライナやベラルーシ、アゼルバイジャン など各共和国が次々とソ連から離脱します。
 当時ゴルバチョフはソ連の大統領でした。しかしソ連という入れ物に中身が無くなってしまった。各共和国が全部離脱してしまい、ゴルバチョフは事実上ただの人になる。これがソ連解体、ソ連崩壊という出来事です。1991年のことでした。
 そしてエリツィンが新しくできた独立国ロシア共和国の初代大統領となりました。エリツィンのイメージは、人の良い大酒飲みのおじさんでした。ちょうど日本では橋本龍太郎という人が総理大臣をやっていて、二人の間では北方領土返還交渉がうまく進みかけた。ところが、エリツィンはソ連解体の時には大活躍をしたのですが、ロシア大統領になってからは経済政策などをうまく行うことができず、人望を失います。北方領土の話も頓挫。
 この後ロシア大統領になったのがプーチンです。強権的な手法を批判されていますが、それでもエリツィン時代にめちゃくちゃになったロシア経済を立て直し、軌道に乗せたということで評価している人もいます。しかし、このあと現在まで約20年間もプーチンが権力を握り続けるとは、多くの人は思っていなかったのではないか。現在は独裁者と言っていいかもしれない。
 ちなみにソ連が持っていた国連代表権、安全保障理事会常任理事国の椅子はロシア共和国が引き継ぎました。

 2021年12月16日

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