世界史講義録 近代史編

 04 アフリカ分割

 これまではヨーロッパ列強によって、アジアの諸地域が侵略され植民地化、もしくは半植民地化していった様子を見ていたわけですが、アジア以外の地域はどうだったのでしょう。 今回はアフリカについて見ていきましょう。実は、アフリカの植民地化はアジアに比べてかなり時期が遅れています。ヨーロッパ列強によるアフリカ進出は、かなり後の話です。なぜかというと、植民地化するためにはその大前提として、その地域にどんな人々がおり、どんな資源があり、どんな産業があるか、などなどその地域についての情報がなければ植民地化するかどうかの判断ができません。
 実はアフリカはヨーロッパ諸国にとって全く未知の土地でした。いやいや、そんなことはないだろう、15世紀後半の大航海時代には、ポルトガルがアフリカに進出していたはずだと思うかもしれません。しかし実際にポルトガルやオランダがアジアに向かう途中で接触したのはアフリカの海岸沿いの港町だけです。一歩踏み込んだ内陸部のアフリカの大地がどんなところであるかは全く知られていなかったのです。しかも風土はヨーロッパと全然違う。ヨーロッパ人が入り込むと、風土病などにかかって命が危険であることも知られていました。本格的なヨーロッパ人によるアフリカ進出が始まるのは、ペニシリンが発明された後だといわれているほどです。
 ただし、アフリカの北岸、サハラ砂漠以北については古代ローマ帝国の時代からお馴染みの土地ではありました。この地域は分かっているのです。問題はサハラ砂漠以南の地域でした。全く謎の多い大陸だったので、今はあまり使われない言葉なのですがかつては暗黒大陸と呼ばれもしました。
 さて、このアフリカがどんなところなのか。これをヨーロッパに知らしめたのは何人かの探検家たちでした。何度もアフリカを探検し、内陸部の情報をヨーロッパに紹介した探検家の第一人者が、19世紀後半に活躍したイギリス人(正確にはスコットランド人ですが)の宣教師リヴィングストンです。探検家はたくさんいたのですが命を落とすことが多かった。それは病気であったり、現地の人々とのトラブルであったりするのですが、リヴィングストンは何度もアメリカに探検旅行をしながら、無事に帰ってくることで有名だったようです。
 彼の仕事が宣教師であることからもわかるように、本来の目的は探検ではなくキリスト教が知られていない奥地に入って布教することです。だから布教のためにたとえ命を落としても悔いはない。だから、それまで誰も行かなかった内陸部の奥地へ、どんどんと探検ができたのでしょう。
 多くのヨーロッパ人たちがアメリカに行くと現地の人々を馬鹿にする、野蛮人だとして差別し、見下すところがあったようです。ヨーロッパ人たちがそういう態度を取れば、当然現地の人達もそれに反発するわけで、トラブルが絶えなかった。どうもリヴィングストンにはそういうところがなかったようで、現地の人たちと比較的うまく交流できたようです。それがリヴィングストンの探検が成功していた秘訣でしょう。
 そのリヴィングストンが、ある時ナイル川の源流を探検しにいったまま、消息不明になります。あのリヴィングストンが死んだのではないか、と大きな話題になります。この話題に乗っかって、アメリカの新聞社が懸賞金を出した。 リヴィングストンを発見した人物に巨額の懸賞金を出すという。これに応じてリヴィングストンを探しにアフリカ探検に行ったのが、アメリカ人の新聞記者スタンリーです。これがスタンリーの写真。僕らが映画などで目にする典型的な探検家の格好ですね。 白いジャケットに白いズボン、頭には白いヘルメットのような帽子をかぶっている。そしてライフル銃を脇に抱えている。後ろには従僕となった黒人の少年がいます。
 このスタンリーがアフリカに入りリ、ビングストンの足跡をたどりながらついにリヴィングストンを発見します。これも大きなニュースになりました。資料集にはスタンリーがリヴィングストンを発見した時の絵が載っていますね。ヤアヤア、とお互いに挨拶をしているようです。リヴィングストンは実は奥地で病気になって、そのまま現地の人の世話になって病気の療養していた。それで音信不通になっていたわけです。ようやく回復して歩けるようになったところにスタンリーがやってきた。それでこうやって外で会見をしているわけですね。
 スタンリーの後ろを見てください。荷物を担いでいる黒人たちがたくさんいます。彼の右にはアメリカ国旗を抱えた黒人もいますね。彼らはすべてスタンリーが雇った人夫です。何ヶ月かかるかわからない探検には膨大な荷物が必要です。そんな荷物を探検家一人で運べない。現地で人を雇って全部荷物を運ばせるわけです。それがよくわかる絵ですね。
 さて、スタンリーはリヴィングストンを発見したことによって一躍探検家として名前が売れた。探検にはたくさんの資金が必要です。スタンリーもたくさんの現地の人々を雇っています。資金がなければ探検は不可能。今でも南極を歩いて横断するとか、北極を犬ぞりでわたるとか、そういう探検家たちがいます。どうやって生活をしているかというと、アルバイトをしてお金を貯める。しかしそれだけでは当然足りないのでスポンサーを探します。スポンサーが提供してくれたものを使って探検をする。スポンサーのロゴが入った服を着るなどを条件に、お金を提供してくれる企業を探すわけです。大口のスポンサーがつけば探検は非常に楽になる。当時も同じで、たくさんの探検家がいたと思うのですが、皆スポンサーが欲しい。そしてスタンリーのように有名になれば、大口のスポンサーが付いてくれるようになる。スタンリーに大口のスポンサーがつきました。それがベルギー王レオポルド2世です。
 ベルギー王はスタンリーを雇って、当時全く未知だったコンゴ川流域の探検をさせました。この地域の内陸部は全く知られていなかった。この巨大な川の流域にはどんな人々が住み、どんな資源があるのか。ベルギー王レオポルド2世は、スタンリーにこれらを調査させたわけです。スタンリーはこの探検を成功裏の内に終え、コンゴ川流域に関するレポートをレオポルト2世に提出した。
 そこまではいいのですが、その次のレオポルド二世の行動が問題を巻き起こします。ベルギー王は、コンゴ川流域を最初に探検したのがベルギー王に雇われたスタンリーであるという理由から、コンゴ川流域の領有権を主張しました。 これには他のヨーロッパの国々が反発します。探検したから自分の国の領土と主張していいのか、ということですね。このベルギーのコンゴ領有問題が非常に紛糾したため、この問題を調整するための国際会議が開かれます。
 これがベルリン会議、別名ベルリン=コンゴ会議です(1884〜85)。ドイツの首相ビスマルクの主催によって開催されました。当時、ビスマルクはヨーロッパでヨーロッパ政治界において非常に大きな影響力を持っていた人です。また、ビスマルクのドイツが植民地を領有する意思がないことは周知の事実でした(1871年に成立したドイツ帝国は国内整備に専念していた)。もしドイツが、アフリカの植民地化に関心を持っていれば、他の国々はビスマルクの主催する会議の意図を疑うところですが、そうではなかった。アフリカの領有に関して、ドイツは利害関係がない。
 そのドイツの大政治家ビスマルクが、ヨーロッパの安定のために会議を開くということで、各国はこの会議に参加して協議した。この会議の結果、結局ベルギーはコンゴの領有を認められました。めちゃくちゃな話ですが、今までルールがなかったのだからベルギーの王様の主張を一方的に否定することはできない、という判断だったのでしょう。しかし探検したから自分の国のものだという主張はこれっきりですよ、ということになります。以後はこんなことは認めない。領有権を主張するためには、実際にその土地を支配すること、実効支配が条件であるという原則が確立されました。早い者勝ちです。これを先占権といいます。ここからヨーイドン!で早い者勝ちのアフリカ分割が始まりました。もちろんアフリカの人たちの知らないところで、ヨーロッパ人たちが勝手に決めたことです。
 早い者勝ちとなれば、強い国が有利になることは必然です。当時ヨーロッパで一番強い国はイギリスですね。
 イギリスのアフリカ植民地獲得作戦が有名なアフリカ縦断政策です。エジプトはスエズ運河の領有から始まって、ウラービー=パシャの反乱を鎮圧し、事実上イギリスの支配下に入っている。またアフリカ南端のケープ植民地は1815年以来イギリスの領有のもとにあります。北のエジプトと南のケープをつなげて、アフリカ大陸を南北につなげて植民地を建設しようというのがアフリカ縦断政策。イギリスは北と南から軍隊を出動させて征服戦争を開始しました。
 当然各地では、イギリス軍の侵略に対する抵抗闘争が起きます。エジプトの南スーダンで起きたのがマフディーの反乱(1881〜98)。マフディーというのはスーダンのムスリムたちが信じていたイスラーム教の救世主のことで、反乱の指導者が自らマフディーと名乗ったためにこう呼ばれています。非常に長い間抵抗していますよね。反乱というよりは、スーダン人国家によるイギリスにたいする抵抗闘争と考えた方が実情に合っていると思います。イギリスはこの鎮圧に非常に苦労して、ゴードン将軍をスーダンに呼び寄せています。ゴードンの名前は記憶にありますか。中国の太平天国と戦った外国人部隊、常勝軍の司令官でしたね。要するに外国で現地民と戦うのに長けているということで、ゴードンが呼ばれたようです。しかしゴードンもマフディーの反乱によって命を落としています。そのぐらい鎮圧に苦労したということです。
 一方南はケープ植民地から北上して征服戦争を始めます。ケープ植民地の植民地首相がセシル=ローズという人物でした。この人は領土拡大に非常に熱心で、イギリスの帝国主義政策を体現するような人物として有名です。 教科書に必ず載っているセシル=ローズの風刺画がありますので見てください。セシル=ローズが両手を広げて立っていますね。彼が立っている大地をよく見てみてください。これはアフリカ大陸です。彼の左足はエジプトに、右足はケープ植民地にある。広げた両手をよく見てみると、細い線が足元から左手、左手から右手、右手から右足に繋がっているのが分かると思います。これは電信線ですね。アフリカを縦断して領土を取り、そこに電信線を敷設しりのだという意思を示しています。セシル=ローズの言葉としては「できることならば、空に浮かぶあの月さえも征服したい」というのが有名です。
 ケープ植民地から北上したイギリス軍ですが、すぐ北にあるトランスヴァール共和国、オレンジ自由国という二つの国と激戦になります。この2カ国との戦争を南アフリカ戦争という。トランスヴァール共和国とオレンジ自由国はブール人の国でした。
 ブール人とはどんな人たちか。資料集に写真があります。パッと見たらわかりますが、皆白人です。南アフリカのケープ植民地のすぐ北に白人の国が二つあった。この写真の左端の人だけ黒人ですね。アフリカの国なのに白人ばかりとは変ではないですか。変な国なんですよ。
 プール人とは何者かと。南アフリカのケープという場所は、はじめポルトガルの植民地になりました。ポルトガルが衰えるとこれをオランダが奪います。1815年、さらにオランダからイギリスの領有に変わります。それまでの約200年間はオランダが支配していた。オランダは小さな国なので、この間にオランダから移民して来る人々がいた。ここで農業するためです。当然ここには黒人たちが住んでいましたが、邪魔だから黒人たちを追い払って土地を奪ってそこで農業をした。このオランダ人移民の子孫がブール人です。
  ブール人達はケープ植民地で農業をしていたわけですが、イギリスの領有にうつると、イギリスの支配下に入るのを嫌って、北に移動してそこに国を作った。それがトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の2カ国です。ここでの黒人たちを追い払って農業をしていた。
 そこにアフリカ縦断政策のイギリスが攻めかかるわけです。プール人は農業しかやっていない。彼らの国は農業国。だから、イギリスは簡単に征服できると思ったのですが、ブール人たちは頑強に抵抗した。これが南アフリカ戦争です。1899年から1902年まで、こんな小さい国を征服するために足掛け四年かかった。なかなか占領できないので、イギリスはここに世界中から兵力を集中した。イギリスは世界中に拠点があって、兵力が分散していますが、それをどんどんと南アフリカに集めてくるわけです。
 その時に中国の拠点威海衛にいたイギリス兵も南アフリカに呼び寄せられた。威海衛のイギリス軍は旅順のロシア軍と対峙している。北から南下しようとしているロシアに睨みを利かせている。従って威海衛のイギリスの兵力を減らすと、ロシアの中国東北地方における勢力が増すかもしれない。それは困ったなあという時に、イギリスは日本の存在に注目する。日本は日清戦争後の三国干渉でロシアを快く思っていないから、日本にイギリスの代わりとしてロシア睨みを利かせればいいではないかと考え、1902年日英同盟が結ばれました。日本にとっては有名な同盟です 。
 同盟を結んですぐに、南アフリカ戦争は終わってしまったのですが、日本にとっては世界でナンバーワンのイギリスが同盟を組んでくれるというのはものすごく嬉しい。日本は思うわけです。我が国のバックにはイギリスがついているぞ。ロシアなんか怖くないぞ。というわけで、1904年の日露戦争につながるわけです。因果関係として南アフリカの事件が東アジアの事件につながっている。 プール人たちが南アフリカで頑張らなかったら日英同盟はないし、日英同盟がなければ日露戦争がない。そういう面白さがちょっとありますね。20世紀とはそういう時代です。
 最終的にはブール人の国は潰されて、この地域を含めてイギリスは新しい植民地を形成しました。これが南アフリカ連邦です。先ほども話したように、ブール人たちは黒人たちをむちゃくちゃに差別しました。具体的には、人種隔離政策によって徹底的に黒人を差別しました。ブール人の国家を併合したイギリス人は、そのままブール人たちの人種隔離政策、アパルトヘイト政策を引き継ぎました。のちに南アフリカ連邦がイギリスから独立して成立した南アフリカ共和国も、アパルトヘイト政策を1989年まで続けていて、世界中から非難されていました。その根源はブール人たちの政策にまで遡ることができます。
 イギリスの植民地政策については、3 C 政策という言葉もあります。アフリカ縦断政策のエジプトとケープ植民地の線をインドにまで広げたもので、エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタ、この3都市は共に頭文字が C、三つの C を結んで巨大な勢力圏の作ろうという政策です。日本でのみ使われる用語だともいわれますが、イギリスの植民地のスケールが分かるので頭に入れておくと良いでしょう。
 さて、イギリスのアフリカ縦断政策に対して、ナンバー2のフランスはアフリカ横断政策を取りました。 フランスから地中海を南に渡るとアルジェリアがあります。アルジェリアは帝国主義政策を取る前から、1830年にフランスが植民地にしていました(シャルル10世が政府への不満を領土拡大によってそらそうとした)。また東アフリカの先端のジブチという港町もフランスはすでに取得していました。資料集の地図でジブチとアルジェリアをチェック確認しておいてください。アルジェリアからサハラ砂漠を横断して南に下り、そこから東に向かってジブチ方面まで、横に植民地の帯を作ろうというのがアフリカ横断政策です。プリントの括弧にはチュニジアと書いておきましょう。チュニジアはアルジェリアの東隣です。アルジェリア、チュニジアからジブチへ向かう。
 イギリスもフランスも、それぞれの政策を実現するために軍隊を派遣して、現地の人々を征服し占領しながら進軍していきます。これを実行するとエジプトから南下するイギリス軍とアルジェリアから東へ向かうフランス軍の進路は、必ずどこかで交差しますよね。その地域は、先に占領した国が自国の支配地にすることができるわけですが、歴史というのは面白いもので、この交差する地点に両国軍が同時に到着しました。スーダンにファショダという村があるのですが、そこで本両国軍が鉢合わせをした。1898年、ファショダ事件といいます。
 驚いたのは両国軍の司令官ですね。どうするのか。ファショダをとらなければ、イギリスは横断政策が完成しないし、フランスも横断政策が完成しない。お互いに譲れません。ならばここで戦争を始めるかというと、それもできません。なぜなら、イギリス軍の司令官もフランス軍の司令官も、 現地を征服して土地の支配権を確保せよという命令を受けて作戦を遂行している。他国軍と遭遇したら戦えという命令は受けていない。イギリス軍と戦闘するかどうか、フランス軍と戦闘を開始するかどうかは、めちゃくちゃ大きな問題です。現地の人と戦うのとは、次元が違う問題です。もしファショダで両国軍が戦闘を始めれば、本国でイギリス対フランスの本格的な戦争になるかもしれない。ちょっと事が大きくなります。
 つまり現地派遣軍の司令官が判断できる問題ではない。もう一ランク上の政治的判断が必要だから、鉢合わせしたフランス軍の司令官もイギリス軍の司令官も、本国に指示を仰ぎます。 すると次はパリとロンドンの間で交渉が始まる。君の国がひっこみなさい、という話ですよね。はいわかりました、と引き下がるわけがないので、お互いに譲らずどんどんどんどんと険悪になり、戦争直前まで対立は高まった。
 ここがポイントです。戦争になるかというギリギリの段階になって、フランスが引き下がりました。これがファショダ事件の結末です。プリントには「フランスの譲歩」という所に線を引いてください。フランスがなぜ引いたかは別の話になるのですが、この時フランス国内で陸軍のスキャンダルが発生していて、 フランス陸軍が国民の信用を落とすのです(ドレフュス事件)。この時代になってくると、戦争は国民が一致団結しないと勝てません。フランス政府は陸軍が国民から信頼されていないと感じる。この状態でイギリスと戦争して勝てるかと考えると自信ないということで譲歩した。これはイギリスから見るどうなるかというと、今までナンバー1はイギリス、ナンバー2はフランス。アメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争やインドのプラッシーの戦いの話をしましたが、両国はずっと世界中で戦い続けてきた。いわば天敵、永遠のライバルだった。 非常に敵対していたわけですが、ファショダ事件このチキンレースでフランスが譲歩したことで、イギリスはフランスも話せばわかるじゃないか、考えるようになる。今まではフランスと敵対し合っていたけれども、ナンバー2のフランスと手を組んだ方が、有利に世界戦略を展開できるのではないかと考え直すわけです。 ナンバー1とナンバー2が戦っても互いに消耗するだけですよね。ここはお互いに認め合って、協力した方が良いのではないかと考えた。こう考えるようになった背景には、ちょうどこの時、ナンバー3の国が急速に力をつけてイギリスに追いつこうとしていたことがあります。その国がドイツです。ドイツはビスマルクが首相をやっていた時代には植民地を取らなかったのですが、新皇帝ヴィルヘルム2世が即位してからは積極的に植民地獲得に乗り出すようになります。海軍軍備も急拡大します。イギリスがこれを警戒した。 フランスと敵対関係でいるよりは、フランスと手を組んでナンバー3のドイツを叩く方がより有効だと考えたわけです。
 こうして、ファショダ事件から数年後にはなりますが、1904年に英仏協商が結ばれます。協商というのは古い表現ですが、事実上の同盟と考えてもらって構いません。ここに、イギリス・フランス同盟対ドイツ、という構図が生まれました。先走っていうと、このままの構図で第1次世界大戦が始まります。
 話を元に戻すと、1904年の英仏協商の具体的な中身としては、イギリスのエジプト支配とフランスのモロッコ支配を、相互承認するということです。事実上イギリスはすでにエジプトを支配しているので、今更フランスに承認してもらう必要がないといえばないのですが、 思い出してほしいのですがスエズ運河建設時に作った株式会社の、株の半分はフランスが持っているわけです。だからフランスがエジプトに対して権利を主張しようとすれば、それは筋が通っている。だけど、もうそんなことはしませんよということです。そのかわりイギリスはまだフランスの支配が確定していなかったモロッコに対するフランスの支配権を承認した。フランスとモロッコということは覚えておいてください。
 さて、イギリスとフランスが警戒したドイツなのですが、新しく即位した皇帝は積極的に海外の植民地を取りに行きました。そのドイツが起こした事件が1905年と1911年のモロッコ事件です。簡単にいえば、ドイツがモロッコを取ろうとした。軍艦を派遣したり皇帝自らがモロッコに上陸をしたりした。しかし、ここで1904年の英仏協商が効いてくる。モロッコを要求したドイツは、フランスにはねのけられ、結局モロッコの植民地化に失敗しました。
 イタリアはドイツよりもさらに遅れていたのですが、地の利を生かして地中海の対岸であるリビアをオスマン帝国から獲得することに成功しています。さらに植民地を獲得しようとした時に、まだ植民地化されていなかった地域がエチオピアでした。
 1896年、イタリア軍はエチオピアに侵入しますが、エチオピア軍とのアドワの戦いに敗れてエチオピアの植民地化に失敗しました。アドワの戦いは絶対に覚えておいてください。ヨーロッパ列強に負けっぱなし、領土を取られっぱなしのアフリカなのですが、そのなかで唯一ヨーロッパに勝利したのがこのアドワの戦いです。
 そもそも、エチオピアがこの段階で植民地化されていなかったのには理由がありました。一つは、この国が皇帝を中心にしっかりとした国家機構を作っていたことです。ほとんどのアフリカの地域は、部族社会で国民国家を形成したヨーロッパ諸国にとっては非常に支配しやすいものだったのですが、エチオピアだけは違った。もう一つ、エチオピアが侵略されていない理由があって、それはエチオピアがキリスト教国だったからです。このキリスト教は近代になってヨーロッパ人が布教して持ち込んだものではなく、ヨーロッパ人がやってくるはるか以前からエチオピア人たちはキリスト教を信じていた。たぶんローマ帝国の時代に、エジプトからナイル川をさかのぼってエチオピアに入り、キリスト教を広めた誰かがいた。エジプトに今もいるコプト派と呼ばれる宗派と近いものらしいです。ですから近代ヨーロッパ人のキリスト教とはかなり違ったものでしたが、キリスト教であることには変わりがない。
 ヨーロッパ列強がアフリカの各地を侵略する時に、自分たちの行為を正当化するために持ち出していた理屈が、キリスト教を知らない哀れで野蛮なアフリカの人々にキリスト教を教えて文明化してやるのだ、そのための侵略だから正しいのだという理屈がありました。しかし、エチオピアはとっくの昔からキリスト教国なので、この理屈が通用しない。どんな侵略であろうと、実行する側はそこに一分の理があると主張したいものです。しかしエチオピアではその理屈が通用しなかった。そんなこともあって、エチオピアは独立を保っていたわけです。そして、そこにあえて侵入したイタリアは敗れ去った。
 20世紀に入った段階で、アフリカ大陸で独立を保っていた国はわずか二つだけになっていました。一つが今述べたエチオピア。もう一つがアフリカの西海岸にあるリベリアという国です。
 この国は特殊な国で、アメリカ合衆国からやってきた解放奴隷の黒人たちが建国した。アメリカ合衆国ではすべての黒人が奴隷というわけではなく、中には奴隷身分から解放された自由黒人もいました。白人たちにとって自由黒人は実に目障りな存在だったようで、彼らをアメリカ合衆国から追い払いたかった。また黒人達にとっても、アメリカ合衆国が自分たちの故郷ではない。自分たちの祖先がどこから連れて来られたかは、多くの黒人奴隷にとってはもはや分かりませんが、アフリカが祖先の故郷であることは確実です。そこに帰ろうという動きと、自由黒人を追い払おうという動きが合体して、リベリアという国は作られました。
 リベリアの国旗がここにありますが、アメリカ合衆国の国旗と非常によく似ている。リベリアに帰った人々は、アメリカ合衆国憲法と似た憲法を作り、大統領を選んで国家建設を始めました。ということでここに侵略する列強はいなかった。

 2022年9月3日

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