アメリカは列強の植民地分割競争に加わらなかったため、アジアやアフリカに植民地を持っていませんでした。その代わり、中南米諸国は事実上アメリカの勢力範囲となっていました。先進工業国がアメリカ合衆国だけというアメリカ大陸において、カリブ海諸国やラテンアメリカ諸国はアメリカ合衆国との経済的繋がりがなければ、経済的にやっていけない状態だったからです。従ってアメリカ合衆国は積極的に中南米諸国を植民地という形にしなくても自国の影響下においてコントロールすることができました。
それを改めて確認したのが1889年のパン=アメリカ会議です。中南米の18か国が集まって通商協定などを結んだということなのですが、これは事実上アメリカ合衆国の中南米諸国に対する主導権を確認した会議と考えていいでしょう。
中南米諸国はスペインやポルトガルから独立した国がほとんどなのですが、19世紀末の段階で、まだスペインの植民地にとどまっていた地域がありました。その最大のものがキューバでした。しかもキューバはカリブ海にあって、フロリダ半島から目と鼻の先です。カリブ海を自国の裏庭と考えているアメリカにとって、ここにスペインの植民地があるのはいやです。そこで始めたのが、1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)です。
アメリカの謀略によって始まったこの戦争は、主にキューバで戦われたのですが、ヨーロッパでは既に三流国になってしまったスペインがアメリカに勝てるわけはなく、この戦いはアメリカの勝利に終わりました。
アメリカ=スペイン戦争の結果として、キューバの独立が認められた。ただし事実上はアメリカの保護国として、その影響下に置かれました。またスペインの支配下にあったグアム島とプエルトリコ、及びフィリピンがアメリカの領土となりました。
またこの戦争とは直接関係はありませんが、同じ1898年にアメリカはハワイ王国を併合しています。ハワイは、それ以前からアメリカ人によるプランテーション経営がおこなわれ、経済的には彼らに牛耳られていた。ハワイ王室はアメリカによる併合の危険を感じており、1880年代前半にハワイ国王は日本の皇室との結婚を申し入れています。日本の勢力を後ろ盾として独立の維持を図りたかったのでしょう。この時、日本側はハワイ王家の申し入れを断っていましたが、もしもこの婚姻関係が成立していたら、そしてもしもハワイの独立が存続していたら、ハワイ王家と天皇家が親戚になっているという面白いことがあったかもしれませんね。
フィリピンを植民地として獲得したアメリカにとって、中国がすぐ目の前にあらわれたわけです。そこで、以前もお話しした1899年の国務長官ジョン=ヘイによる門戸開放宣言となるわけです。これは中国進出をめざし、他の列強を牽制する内容でしたね。
中南米諸国に対し勢力を拡大していく時代の、アメリカ大統領として有名な人物がセオドア=ローズヴェルト(共和党)です。かれは中南米諸国に対しては強行で、武力干渉も辞せず、政治介入していきました。
有名なのがパナマ運河の建設です。パナマ運河はご存知のように大西洋と太平洋を結ぶ運河です。この運河はパナマにあるのですが、そもそもここはコロンビアの領土でした。アメリカ合衆国はここに運河を作るために、コロンビアからパナマという国を独立させて、そこに自国に都合のいいように運河を作ったのです。1979年にパナマに返還されるまでパナマ運河はアメリカ合衆国のものでした。つまりパナマはアメリカ合衆国が運河を作るために作った国だったわけです。
セオドア=ルーズベルトの力づくの外交を「棍棒外交」と言います。またアメリカ合衆国のカリブ海に対する外交政策のことを、「カリブ海政策」といいますので覚えておいてください。資料集には棍棒を担いでカリブ海を歩いているセオドア=ルーズベルトの風刺漫画がありますね。
さて、 ここでアメリカ=スペイン戦争の結果、アメリカの植民地となったフィリピンについて話しておきたいと思います。
大航海時代にマゼランが太平洋をわたってフィリピンまで到達し、そこで現地のラプラプ王と戦って死んだ話は以前にしました。それ以来フィリピンの島々はスペインの支配下に入ります。フィリピンという国名そのものが、スペイン王フェリペ2世に由来している。もともとフィリピンという国があったわけではなく、多くの島々にはたくさんの民族が住んでおり、様々な言葉や文化があったはずですが、300年以上にわたるスペインの支配によって この島々はひとつのまとまった地域として考えられるようになりました。
スペイン文化を受け入れざるを得なかったことによって、フィリピンの人々の名前は、スペイン人と同じようになってしましました。マルコスとかホセとか、昔ながらの伝統的な名前を名乗っている人もいるのかもしれませんが、フィリピンの人の名前を見るたびにスペインの影響力の大きさというのを考えてしまいます。
フィリピンにも19世紀後半には、スペインからの独立運動が起きてきます。その最初の人物がホセ=リサールです。スペイン人のような名前ですがフィリピン人ですからね。
ホセ=リサールは、作家としてフィリピンの現状をフィリピンの人々に自覚させるという仕事をしました。現在でも非常に人気があり、英雄視されている人物です。
彼の家は裕福だったようで、フィリピン国内で医学などを学んだのち、21歳の時にスペインに留学しました。スペインのマドリードに行ったホセ=リサールは非常に驚いた。 何に驚いたかというと、マドリードの街の荒んで貧しいことにです。ホセ=リサールは自分の故郷であるフィリピンを支配しているスペインは、非常に強大で立派な国だと思っていた。ところが実際に行ってみたスペインは、非常に衰退している。マドリードの街も非常に汚い。自分の故郷の方がよほど美しいのではないかと思った。こんな国にフィリピンは支配されていたのか!という感じでしょうね。
それでホセ=リサールはスペインで学んだ後は、フランスやドイツに行って学問を続けていました。国外から見ると、フィリピンで何が行われているかというのが非常によくわかる。ホセ=リサールは、スペイン統治下のフィリピンの実態を描いた小説を発表します。これは評判になって、ヨーロッパでも結構読まれたようです。
やがてホセ=リサールはフィリピンに帰国するのですが、自分が発表した小説によって当局に目をつけられ逮捕される恐れがあると感じて、2度目の留学に出ます。しかし故郷に帰りたいという気持ちを抑えることができず、逮捕を覚悟の上で再びフィリピンに帰ってきます。
案の定、彼は逮捕されて流刑にあう。刑期を終えて故郷に帰ると、フィリピン国内でカティプーナンという武装組織による独立闘争が始まりました。
カティプーナンの独立闘争は、ホセ=リサールとは全く関係がなかったのですが、この武装闘争の裏でホセ=リサールが糸を引いているのではないかと疑われ、彼はまたもや逮捕され恣意的な裁判で死刑判決を受け処刑されてしまいました(1886)。
これがホセ=リサールの処刑を描いた絵です。フィリピンでは非常に有名な絵のようです。真ん中に銃殺にあい、今まさに倒れようとしているホセ=リサールが描かれています。その周辺には彼の人生の様々な場面が描かれています。彼が幼い頃に起きたフィリピン人神父の処刑事件が描かれています。スペインを批判したということでフィリピン人神父が処刑されたのです。こちらは、物思いに沈んでいるホセ=リサール。逮捕されるホセ=リサールを心配している彼のお姉さん達。
しかし何といっても重要なのは、絵の中心の処刑シーンなのです。銃殺刑がおこなわれるときに、ホセ=リサールは前を向いて死にたいといった。銃殺というのは処刑される人を壁に向かって立たせて後ろから撃ちますよね。それを嫌がった。しかしその願いは認められず背中から撃たれることになったのですが、撃たれた瞬間に、彼は前を向こうと思って身をよじった。彼の体が倒れこみながら、身をひねっているのがわかりますよね。こういう亡くなり方をしたホセ=リサールは、やがてフィリピン人の英雄となるのです。
彼は小説を書いてフィリピンの人々を啓発した。スペイン植民地支配を批判した。ただそれだけなのですが、なのに独立反乱の指導者という濡れ衣を着せられて処刑をされた。亡くなったのは35歳です。
人々に語りかけただけなのに無実の罪で、35歳で死んでいったホセ=リサールを、フィリピンの人々はイエス=キリストと重ねたのです。スペインの300年に及ぶ統治によってフィリピンの人々の多くはローマ=カトリックの信者となっていました。その彼らの眼には、ホセ=リサールとイエスが重なって見えたのです。
フィリピンに行くと、大きな街には必ず「ホセ=リサール通り」というメインストリートがあり、ホセ=リサールの名前を付けた小学校があるという話を聞いたことがあります。それぐらいの偉人になった。
日本人は彼のことをほとんど知りません。フィリピンの人も、日本人がホセ=リサールを知っているとは思っていない。ずっと前ですが、何かの時にフィリピンの人とたまたま話をすることになって、ホセ=リサールを知っていますよと言ったら、めちゃくちゃ喜んで、急に親近感を持ってくれた。皆さんも、もしフィリピンの人と会うことがあったら学校でホセ=リサール習ったよと言ってくださいね。
歴史を見ていると実像からはなれて、後世のイメージがものすごく大きくなっている人がしばしばいます。日本史でいうと、例えば坂本龍馬や土方歳三になぜこんなに人気があるのか。後の時代に、どんどんと様々なイメージが重ねられていっているのだと思います。ホセ=リサールも、時代的には幕末に近いところです。近代国家が作られる時に人々は英雄を必要とするのかもしれません。
話をフィリピンに戻します。ホセ=リサールが処刑される原因となったカティプーナン党の独立闘争の話です。
1896年、カティプーナン党がフィリピンに対して独立闘争を開始します。いったんは鎮圧されてしまい、主要メンバーは香港に亡命した。ところが、1898年に先ほど話したアメリカ=スペイン戦争が始まります。アメリカにとって戦争相手のスペインを困らせることが非常に大事なことで、フィリピンにおける独立運動が盛んになればスペインはそれだけ活動が制約されることになります。そこでアメリカは香港に亡命していたカティプーナン党の幹部を支援して再び独立闘争を起こさせました。アメリカ=スペイン戦争におけるスペインの敗北もあり、その隙を突いて、カティプーナンは1899年にフィリピンの独立を宣言します。このときのカティプーナンの指導者がアギナルド。かれは独立したフィリピン共和国の大統領に就任しました。
ところが、アメリカ=スペイン戦争でアメリカはフィリピンを獲得した。つまり、植民地フィリピンの新たな支配者となったわけです。
植民地を手に入れたアメリカは、フィリピンの独立を認めるわけがなく、支配者としてフィリピンにやってきます。フィリピン共和国は、独立国として当然これに抵抗をする。
こうして起きたのが1899年のアメリカ=フィリピン戦争です。できたばかりのフィリピン共和国が、アメリカの軍事力と対抗できるはずはなく、フィリピン政府は簡単に転覆され、フィリピンは再び新たな支配者アメリカの植民地となったのでした。
アギナルドはアメリカ軍に捕えられましたが、処刑は免れ、二度と政治活動は行わないと約束をさせられた上で釈放されました。アギナルドは第二次世界大戦後の1960年代まで生きています。ちなみに、アギナルドは、1898年に日本に独立運動の支援を要請しています。この時には犬養毅などがこれに応じて、日本の民間有志が日本軍の古い武器を払い下げてもらいこれをフィリピンに送っています。ただしこの船は途中で沈没してしまい武器はフィリピンには届きませんでしたが。
ハワイといいフィリピンといい、19世紀末期の段階で日本に対して、欧米列強からの抑圧を跳ね返す役割を期待していた人々がいたということですね。ただし日本政府はこのような期待に応えていません。