時間切れ!倫理

 135 高野長英

 『解体新書』が本格的な蘭学のスタートでした。 この翻訳作業によって彼らはオランダ語が読めるようになるので、こののち、西洋医学を志す人々はこれを基礎にオランダ語を研究し、医学を研究し、蘭学は発展していきました。蘭学を学ぶ人はほとんどが医者です。
 次の世代になるとかなり進歩しています。高野長英(1804〜50)、渡辺華山(1793〜1841)がその代表です。彼らは友人です。蘭学を学んでいる医者たちは皆知り合いで、同じサークルに入っているようなものです。本格的に蘭学、西洋医学を学びたい人は長崎に行きます。出島にはオランダ人の商人たちが住んでいます。彼らも病気になる。病気になったら日本の漢方医に診てもらうかというと、そんなことはない。当然馴染みの西洋医学の医者に診てもらいます。だからオランダ人の医者も出島にいるわけです。
 一時期シーボルトという医者が出島にやってきます。シーボルトはドイツ人なのですが、日本のことを研究したいがために、オランダに頼み込んでオランダ人ということにしてもらって出島にやってきます。日本の生物や自然地理などの研究が本当の目的です。だから日本人の蘭学を学ぶ人たちに対しても熱心に教えます。日本人と親しくなる事によって様々な日本の情報を得られると考えていたこともあるのでしょう。やがてシーボルトは出島ではなく長崎郊外に医学の宿を作ることを幕府に許されます。鳴滝塾という塾で、そこで多くの日本人が蘭学を学びました。高野長英はその一人で、抜群の語学力で鳴滝塾の塾頭となったほどでした。
 彼ら蘭学者は皆西洋医学の医者ですが、オランダ語に堪能なので医学以外の情報をキャッチすることができました。西洋の技術や政治情勢についても、たぶん日本において群を抜いた知識を持っていたはずです。インドや中国がヨーロッパの侵略によってどうなっているかは知っているはずです。
 この頃には日本近海にもロシア船やイギリス船などがやってきていました。鎖国を守りたい幕府は異国船打払令を出して、海岸に近づく外国船は大砲を撃って追い払えという命令を出していた。これは西洋諸国の軍事力を知らないからできることであって、それを知っている高野長英達にとってはとんでもなく危険なことに思えました。
 そこで彼らは、幕府の外交政策を批判します。その結果、幕府の弾圧にあいます。これを蛮社の獄(1839)という。渡辺崋山は三河田原藩に帰国を命じられ、そこで切腹します。高野長英は一旦幕府にとらわれるのですが、脱獄して逃亡生活を続けます。  実は各地に彼の蘭学の実力を知ってかくまう人たちがいました。地位の高い人でいうと、愛媛宇和島藩主の伊達宗城がいます。彼は高野長英を匿いますが、その見返りとしてオランダ語の兵学書の翻訳をさせたり、海岸に砲台を作らせたりしました。彼の才能を利用したいのですね。各地を逃亡しますが最後には江戸に帰ってきて、医者として診療所を開きます。
 高野長英は逃亡者なので人相書きが出回っている。多くの患者が診療所にやってくれば、自分の居所が幕府の役人たちにバレるかもしれません。そこで彼は自分の顔を硝酸で焼いて顔を変えています。そこまでしているのですが、結局、潜伏先が幕府に知れて、捕まえられて処刑されてしまいました。
 高野長英や渡辺崋山ランクになると世界情勢が分かっている。幕府の首脳陣が、彼らからきちんと海外情勢を聞いて、それを外交政策に反映させていれば幕末の歴史も大きく変わっていたかもしれません。

 2024年1月29日

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