神託の意味を探る件だけでなく、ソクラテスは、アテネの街のあちこちで、誰彼となく捕まえて議論を吹きかけるのです。何について議論を吹きかけるかというと、勇気とは何か、正義とは何か、正直とは何か、善とは何か、そういう問題です。
ソクラテスがちょっとずるいのは、例えば正義とは何かという質問を誰かにする時に、「自分は、正義はこういうものだと思うけれどもあなたはどう思いますか」という聞き方をしません。自分の考えをいわずに、「君は正義は何だと思うかね」と質問して、相手が答えると、「ではこういう場合はどうか」「こんな場合はどうなるのか」、といろいろな例を挙げて質問を繰り出し相手を困らせる、そういうやり方です。
だから時には、議論を吹きかけた相手に、「まずお前からいえよ、お前がいったら俺の考えをいってやる」といわれることもあった。それに応えて、ソクラテスは自分の意見をいったかというと、黙ってしまいます。そして「私の行動を見てくれ。私の行動を見れば分かるだろ」といっている。客観的に見て逃げていますね。
ある時には議論をしていた相手から最後に、「ソクラテス、あなたの意見を聞かせてくれ。あなたは勇気は何だと思ってるんだ」と問われて、「私にも分からない」と正直に答えています。
「そりゃ、ソークラテース、そういうのは私も君と同じに、いつだっておなじことを言う。しかし正義の問題については、私は、君でもほかの人でも決して反対のできぬことをいま言えると信じている。」
「それはなんとも大した発見をしたというものだ。その大発見を拝聴しないうちは、どうやってお前さんのそばを離れたらいいか、わからなくなった。」
「しかし、私は決して君に聞かせないつもりだ、まず君の方から正義とは何であるか、意見を述べないうちは。なぜって、他人が笑いものにされただけでたくさんだからね。君はすべての人に質問をかけてぎりぎり調べあげるが、自分の方からは、解明もしなけりや、なんの意見も述べようとしないのだ。」
「どうしてな。ヒッピアース、私は正義をいかなるものと考えているか、たえず世間に示してやむときがないのだが、君はそれに気がついていないか。」
「それがどうして君の解明になるんだい。」
「解明ではないとしても、行ないでもって私は示している。それとも、君は言葉よりも行為の方が、証明として値打があるとは思えないかね。」
クセノフォーン『ソークラテースの思い出』(佐々木理訳、岩波文庫)より
こんなソクラテスのどこが偉いのか、と思うかもしれません。実は、ソクラテスは例えば「勇気」という問題を考える時に、勇気そのものが何なのかを追求した。
具体的な場面では、戦場で敵とぶつかり死も恐れず戦う態度は勇気がある。逃げるやつは勇気がない。では、怪我をした友人をかばいながら、退却しつつ敵と戦う、これは勇気がないのか。逃げているけれど、これも勇気はある。勇気ひとつとっても、こういうふうに場合場合によって判断は分かれる。「こんな場合は勇気があることです」という答えは、ソクラテスが求めているものではなかった。こういう場合は正義です、こういう場合は正直です、というふうに場合場合で判断が違うことでは満足できなかった。
場合によって違うのは、ソフィストたちの価値相対主義の立場です。ソクラテスは、状況に関係のない、正義そのもの、勇気そのものを探求したのです。
【参考図書】
岩田 靖夫『ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書) 』 2003
古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)』2005
シュベーグラー『西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫))』谷川哲三・松村一人訳、1939
竹田青嗣・西研編『はじめての哲学史―強く深く考えるために (有斐閣アルマ)』1998
バ−トランド・ラッセル『西洋哲学史 1』市井三郎訳、みすず書房、1970