時間切れ!倫理

 29 裁判と死

 ソクラテスは70歳を超えてから、アテネの有力者に憎まれて、告訴され裁判で死刑判決をうけた。罪状は「青年を腐敗させ、国家の認める神々を信じない」というものです。これは現代から見れば罪ともいえないようなものですね。当時のアテネはスパルタとのペロポネソス戦争に敗れ、政治的には混乱が続いていた。そんななか、ソクラテスのかつての弟子が政治家となってアテネを混乱させたり、ソクラテスの質問攻めが有力者の恨みをかったりしたことが原因でした。ソクラテス自身は政治にはあまり関心がなかったようで、議会の議長をやったことがあるくらいです。

 裁判ではソクラテスは得意の弁論で自分の無実を主張するのですが、結局有罪になる。アテネの裁判は陪審員制で票数は281対210だったらしい。
 有罪が決まった後、刑罰を決める裁判が続くのですが、ソクラテスはそこでこんなことをいう。
 「自分はアテネのために尽くしてきた。悪いことは何一つしていない。そんな私にふさわしい罰はアテネの町が私にお金を贈ることしかない。」
 陪審員を敵にまわすような発言です。かれを訴えた連中は、死刑にしようとまでは思っていなかったようで、国外追放にするか、すくなくともソクラテスがもう議論をしないと約束すればそれでよいと考えていたようですが、結局死刑判決が出されてしまう。
 ソクラテスは牢獄に入れられるのですが、宗教行事の関係で死刑執行まで30日あった。牢番は融通の利く人だったので、たびたび面会に来る弟子や友人たちをソクラテスの牢獄に入れてやった。やってくる友人たちは、ソクラテスに逃亡を勧めるのです。「手はずはととのえているから逃げよう」と。ところがソクラテスは断ります。
 「国法を守るのだ」というのが、ソクラテスが述べている理由のひとつで、いちばん有名です。ただ、この理由をソクラテス時代のギリシアと切り離して、現代に無条件に当てはめるべきではない。逃げる気があれば、ソクラテスは裁判の前に逃げることもできた。裁判中でも、国外追放の刑罰を受け入れることもできた。裁判の過程で、ソクラテスは陪審員を挑発して死刑判決を出させたといってよいくらいです。「追放よりも死を選ぶ」と裁判でいっているのです。これで逃げたら、残念な老人になってしまう。
 なぜ逃げなかったか。ソクラテスは根っからのアテネっ子、アテネ市民です。この町を離れて生きていくなんて、考えることはできなかった。アリストテレスのいう「人間はポリス的動物」の典型です。自分に死刑判決を出した人々がいても、やはりアテネが好き。悪法であっても国法に従うべきというより、国法を破ることでアテネをだめにしたくない。皆が国宝を破るアテネであってほしくないと考えたのではないか。
 また、彼は徳、善い生き方を追求して生きてきた。それはアテネ市民皆が知っている。その生き方の結果が死刑判決ならば、それを受け入れる以外にかれの道はなかったのではないか。逃げたらそんな奴だったと思われる。自分の過去の言動すべてが水泡に帰す。それが魂への配慮だったのだとおもいます。

 教科書では、「評決に従うのがポリスの市民の義務であり、不満だからといって脱獄してポリスの掟を破る不正を犯してはならないといい、みずから毒杯をあおいで死んでいった」とあります。確かのその通りなのですが、こういうまとめ方は「悪法も法なり」、だから「文句をいわずにどんな法律にも従え」という、権力者にとってありがたい格言まで一直線です。私は教科書の解説よりも、もう少し深く掘り下げてみたいと思ったですが、どうでしょうか。
 ソクラテスの考えはプラトンの著した『ソクラテスの弁明』『クリトン』に描かれています。ここまで話したうえで、夏休みの課題図書にすると面白いのですが(私の高校時代には、夏休みの課題図書の定番でした)それはしません。ぜひ読んで皆さん自身で判断をしてほしいです。

 30日の収監ののち、いよいよソクラテスは毒杯をあたえられ、それを自ら飲んで死んでいきます。その瞬間にも、牢獄には友人や弟子たちが付き添っているのです。弟子が「先生、死なないで」って泣く。「おお、足の感覚がなくなってきた、死が近づいてきた」などといっていたソクラテスが、嘆いている弟子を見て、魂の不死を語り悲しむことではないのだ、と慰めます。最後まで自分の哲学を語り続け、堂々とした死にざまでした。

このソクラテスの生き方、そして死に方が、2500年後の現在まで語り継がれる影響力をもったのです。

【参考図書】
ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)
ソクラテスの弁明 クリトン (岩波文庫)

 2021年6月12日

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