時間切れ!倫理

 32 洞窟の比喩

 プラトンは『国家』のなかでこんな例を出している。

 洞窟がある。そして、われわれ人間はみんな洞窟の中で縛られて固定されている。どちら向きに縛られているかというと、洞窟の奥の方を向いて縛られている。人間の後ろ、つまり洞窟の入り口近くには炎がある。そして、その炎と縛られている人間たちの背中のあいだをいろいろなモノが通る。美しいバラの花が通ったり、正三角形が通ったり、重装歩兵が通ったり、真実が通ったり、正義が通ったりする。すると、洞窟の奥の壁に通過するモノの影が映るね。
 われわれは、壁の奥を向いて生きているので、その影をモノの本当の姿だと思い違いをしている。しかし、人間の背後を通過していくモノ、それがモノの本体、イデアだ、というわけです。しかし、誰かが壁の奥を向いている人を、無理やり振り向かせたらどうなるか。はじめは眩しくてよく見えないが、やがて目がなれてくると、イデアが見えてくる。今まで真実だと思ってみていたモノはイデアの影に過ぎないことに気が付きます。その人が、洞窟の外に出てみると輝く太陽のもと、素晴らしい景色が広がっている。
 プラトンは、この太陽が最高のイデアである「善のイデア」であるという。「善のイデア」である太陽を見た人が、やがて皆がいる洞窟に帰ってくる。彼は、人々に後ろにこそ実在の世界、イデアがあると説きますが、誰もそんな話を信じない。これが洞窟の比喩のです。

 目の前に見えているこの世界、現象世界を真実と考えず、別の世界に実在を認める、そこに物事の本当の姿がある、こんな考えを観念論哲学というのですが、プラトンのイデア説はその代表です。
 ちなみに、振り返って洞窟の外に出た人物として、プラトンは師ソクラテスを思い浮かべていたように思います。

 プラトンのイデア論は「万物の根源は数」というピタゴラスに大きく影響されています。また、パルメニデスの「存在」に対する答えでもあります。

イデアと概念の違い

 イデアは英語のアイデアの語源です。また、個々の犬や、個々の猫、個々の机ではなく、犬や猫、机のイデアがあるという説明を聞くと、それは概念のことではないかと思いがちです。しかし、イデアと概念は明確に違います。概念は単なる観念であり、われわれの頭の中にあります。一般名詞といってもいい。ただの言葉です。
 しかし、プラトンにとってイデアは実在する。イデアの机や犬が本物であり、この現象世界において我々の感覚がとらえる机や犬は、イデアを分有しているに過ぎないと考えます。犬のイデアを分有しているが、非実在である。イデア界を認識するのは理性であり、理性がとらえる世界こそが真実。感覚がとらえる世界は実在ではない、という発想です。

 現代にイデア界があると信じている人はいないでしょう。しかし、たとえば「自分探し」という言葉に多くの人は違和感を持たないし、ときに共鳴する。人は現実に満足できないときに、「今ここにいる自分」とはちがう「本当の自分」がどこかにあるはずだと思う。そういうことを考えた人は、みんさんの中にもいるでしょう。
 これはイデア説に近い発想だと思います。イデア説を生みだしたり、受け入れたりする感性は、現代社会の私達の中にもあるのです。
 ついでにいっておくと、「目標に向かって努力する」のと「自分探し」は似て非なるものだとおもう。「自己実現」はどちらの意味でも使える。自分が使うときは、どちらの意味なのか、自覚しておく必要がある言葉だと思う。

 2021年07月03日

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