時間切れ!倫理

 53 道家2

D逍遥遊
 ここからは荘子です。基本的には同じですが、荘子は老子よりもロマンチック。文学的というか、ポエムのような感じです。
 荘子の有名な言葉が逍遥游(しょうようゆう)。逍遥は「ただよう」、ふわふわしている。遊は「あそぶ」、「旅する」という意味もある。だから一箇所に縛られずにただよっていく生き方、「それがいいんやで」といっている。これが絶対自由の境地。老子は「あるがままであれ」、荘子は「絶対自由の境地を目指そう」かなと。頑張ってはダメだけどね。絶対自由の境地を身につけた達人みたいな人を、真人といいます。これが荘子の理想の人間像。こういう人間は、自由にさすらっている。皆さんの世代はもう見ないかもしれないけれど、『男はつらいよ』のフーテンの寅さんのイメージだね。彼はちょっと俗っぽすぎるかな。

E万物斉同
 これはすべてのものが皆等しく、人為的な差別のない状態、そういう世界が理想だという。全てのものが皆同じ。みんな平等というのは、なんとなく墨家に似ています。

F胡蝶の夢
 「胡蝶の夢」は『荘子』の中に出てくるエピソードの一つです。この話は後世の人たちに、大きな影響を与えている。日本人も含めて、文学者や哲学者に、何か深いイメージを与えつづけている話です。
 ある時、荘子が昼寝をしていて、夢を見る。夢の中で、荘子はきれいな蝶々、つまり胡蝶になってひらひら飛んでいた。まさしく逍遥遊です。ああ、気持ちいいなと思いながら飛んでいて、やがて目が覚める。パッと目が覚めて、「えっ、あれっ」と思う。人間になっている。「ああ、蝶になって逍遥していたのは夢だったのか。」次に思いが反転して、「いや、あれが本当の自分で、今の人間の自分が夢かもしれないなあ」と思いました。それだけの話。夢も現(うつつ)もない。まさしく万物斉同。それが理想の精神世界なのでしょうね。めちゃくちゃ癒し系です。有名なエピソードで、よく出てきますので「胡蝶の夢」という言葉は覚えておいたらよいかな。

 『荘子』にはこういう話がいっぱい出てきます。例えば有名な話で、道に大木が生えている。あまりにでかいので道が木の周りを迂回している。この大木が邪魔。これを切り倒したいけれど、固くて切れない。たとえ切り倒しても、幹も枝も曲がりくねっているので製材して材木として使うこともできない。ああ、本当に邪魔で役に立たない大木だ、と皆がいう。それを聞いた荘子は、そんな大木があるなら、いいじゃないか、素晴らしいじゃないかという。私なら、その大木の木陰でのんびり昼寝をするよと。皆が無用というものに、荘子は価値を見出す。これが無用の用。

 こんな話もある。あるところにでっかい瓢箪がなった。大きすぎてとても水筒にできない。半分に割って柄杓にしても、平べったすぎて使えない。それを聞いて荘子は、そんな瓢箪があるのなら、半分に割って川に浮かべて、そこに乗ったら楽しいじゃないか、といった。これも無用の用。一見役に立たないものに大いなる価値がある。これは、戦国の世を治めるのに役に立たないと批判された道家の思想のことでもあるようです。

 こういう話は、ちょっと救われる感じがする。現実には役に立たないけれど、戦国時代の人々が皆争いあっている時代に、こんなことをいう人がいると、ああいいなあ、とみんな思うよね。戦争を止めようとした墨家は、戦国時代が終わると用がなくなって消えていきますが、道家の思想は、戦国時代が終わってもずっと生き続けます。人にはこんな思想が必要なのでしょう。のちの時代には、道教という宗教になって続いていきました。今でもある。中国には道観という道教のお寺があります。また、道教の僧のことを道士という。世界史の資料集には、現在の道士の写真が載っていました。
 思いつくところでは、国語の教科書に載って『山月記』の中島敦は、『名人伝』で道教的な世界を描いている。芥川龍之介の『杜子春』に登場する仙人は、道士の究極の姿だとおもいます。

 2021年11月13日

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