時間切れ!倫理

 52 道家 1

老子・荘子

 道家は二人です。老子と荘子。老子・荘子の二文字をとって老荘思想ということもあります。老子は生没年が分かりません。実在していないのではないかといわれてます。『老子』という本があるので作者がいたことになってるけれども、どこかの誰かが老子という名前を使って編集したのでしょう。

概要
 人為を排し自然との一体化を目指す。のちの道教の源流です。道教は中国の宗教です。道家の思想が仏教に刺激されて宗教化したものです。日本には、きっちりとした形では入ってきません。道教としては入ってこないけれど、中国文化として断片的に入ってきてるので、なんとなく雰囲気はわかる。

思想
@道
 老子・荘子の思想の、一番のキーワードは道(タオ)です。タオは現代中国語の発音。万物の根源、あるがままの姿がタオ。老子も荘子も、「道」を定義していないので、タオとは何々である、といういい方はできないが、日本人ならこの「道」という漢字をみてなんとなくわかる気がするでしょう。そんなもんかなって。こういう雰囲気。あるがまま。無理せずに。存在するまま存在してるみたいな感じです。

A無為自然(むいしぜん)
 キーワードもうひとつ。それが無為自然。タオは世界のあり方。その中で人間はどうしたらいいのか、それが無為自然。何もしなくていいよ。無理をして何かをしない。何もしなければ、なるようになるよ、あるがままでいいよと。なんかすごいね。
 だから努力したり頑張ったりすることはダメです。そんなことしちゃ駄目。あるがままでいいという。
 無為自然を読み下せば、「為すこと無ければ、自(おの)ずからしかり。」”Don’t do,that’s all right.”努力しないように努力するのもダメですよ。力を抜いて、そうすればなるようになる。
 これも儒家批判です。儒家は、仁だとか礼だとか、ややこしいことをいっている。老子によれば、「大道廃れて仁義あり」。仁だとか礼だとか、家族道徳だとか、教育で矯正しなければならないとか、儒家はややこしいことをいっているけれど、それは偉大な道「タオ」をすっかり忘れてるからなのだ。仁とか礼とかいう人為を排して、道に立ち返れば、何もしなければうまくいくのだ。儒家は努力して余計に苦しくなって、世の中を生きづらくしているのだと。
 この道家の思想で、戦国時代がおさまるかというと、おさまりません。でも癒しの効果はある。世知辛(せちがら)い戦国時代にこういう思想に触れたら、ちょっとほっとする。現代でも癒し効果は薄れていないので、書店に行くと「道(タオ)」と表紙に書かれた本がいっぱいあります。

B小国寡民(しょうこくかみん)
 道家の思想で、戦国の世を平和にすることは無理だと思います。もし、平和な世界が現実可能とすれば、それは小国寡民の世界。人口の少ない(寡民)小さな国(小国)、どの家にどんな人が住んでいるのか、みんなが互いに知っている小さな国。そこでは隣人同士のいさかいもないし、戦争も起こらない。ルールを決めなくても、道徳を強制しなくても、全ては平和に過ぎていく。朝になったら畑を耕し、夕方なったら帰ってきて寝る。無理せず自然に任せて日々を送る。道家はそれが理想だと考えた。
 原始時代みたいなイメージでしょうか。ルソーの自然状態とは違うけれど、同じような発想ではある。現代風にいえば小農業共同体。歴史上、様々な人たちがこういう理想の共同体を夢見て、実践してきましたが、理想的かつ永続的なものは私の知る限りいまだかつてない。少ない人達だけで村を作って、その中だけで生きていくなら、「道」というあり方も有効かもしれませんね、という話です。

C柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)
 柔弱謙下は、道家が勧める生き方のモデルみたいなものです。「何もするな」を具体的にいうと、柔らかくあれ。弱くても構わない。強くなくてもよい。硬くて強いものはポキリと折れやすいが、やわらかいものは壊れない。謙下の「謙」は、謙譲・謙遜の謙です。いばらない。さらに「下」がついている。だから、へりくだっていればよい。「お前は下だ」といわれても別に怒ることはない。しなやかに柔軟に、控えめに生きる。これが老子の勧める生き方です。
 「上善(じょうぜん)は水の如し」。水のように生きる。柔らかいものの代表は水。水は柔らかいどころか形すらない。どんどん流れていくのは、下へ向かってです。謙下の「下(げ)」は下(した)でしょう。それが上善。善い生き方である。水も時間をかければ、岩を穿ち山を削ることもある。本当は強いのかもしれない。しかし、それでも水は「頑張っている」わけではない。
ここまでが老子です。

 2021年11月6日

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