時間切れ!倫理

 94 ガウタマ=シッダルタ

 仏教の開祖はガウタマ=シッダルタ。この名前は本によって様々な表記になっています。ゴータマ、シッダールタとか、日本語表記が定まっていません。だから、表記が違う本を見てもあまり気にしないこと。ガウタマ=シッダルタという表記も絶対ではありません。
 彼はブッダとも呼ばれますが、ブッダは名前ではない。「悟りを開いた者」という意味の尊称で、固有名詞ではありません。伝説によるとガウダマ=シッダルタが現れる数百年前にも、別のブッダがいたともいわれています。また、もし皆さんが明日悟りを開いて「自分はブッダだ」といっても構いません。
 ガウタマは現在のネパールにいたシャカ族という部族出身です。ここからお釈迦様とも呼ばれます。王子だったので、将来王様になるはずでした。しかし、ガウタマは若い頃より現世の喜びよりも解脱のことで頭がいっぱいで、悟りを開きたいとすごく思っていたようです。出家修行したいという気持ちが強い。
 父である王は、それを知って、この世は楽しいとガウタマに教えるため、さまざまな努力をしたらしい。美女を集めて豪華な食事を並べて大宴会を開く。ガウタマもその瞬間は楽しいなと思う。ところが、夜も更けて居眠りをしているうちにパッと目が覚めて、自分の横でうたた寝をしている美女を見ると、口を開けてよだれを垂らしている。美しい女もこんなふうになるのか、とますます修行への憧れを強くしたという。後世に作られた伝説でしょうが、ガウタマの精神のあり方をうまく伝えているかもしれません。
 ガウタマは、結婚もし子供ももうけますが、ついに、家族を捨て、地位を捨て、国を捨て、修行生活に入ります。
 家庭を捨て、社会的な役割も捨て、修行の道に入ることを出家するといいます。出家者は現世の楽しみを全て放棄します。ガウタマは、森に入ってヨーガ、断食などの難行苦行を何年もおこなったといいます。しかし苦行を続けていても、まったく悟りが開けません。苦行によって肉体をいじめればいじめるほど、悟りに近づくのではなく、逆に苦しい修行に体が慣れてしまう。
 こんなことを続けても悟りを開けないなと考えたガウタマは、苦行を放棄して村に出てきた。そして、川のほとりにあった菩提樹の下に座って瞑想をしていた。そうすると、突然悟りが訪れた。ちなみに、いい伝えでは菩提樹の下で悟りを開いたガウタマは、長年の苦行でガリガリに痩せている。それを見た村の娘が、ガウタマに持っていたミルクを与えたという。その娘の名前が「スジャータ」。某コーヒーフレッシュの名前はここから来ています。
 悟りを開いたガウタマは思った。「これはすごい」と。しかしこの悟りの境地を言葉にして人に伝えるのは非常に難しいとも思った。「言葉にするのは非常に困難だ、伝えようとしても伝わるものではないし、下手に誤解されるかもしれない。だからこの悟りの境地を人に伝えるのはやめておこう」と一度は考えたらしい。
 こうも思ったといいます。この境地を人に伝えるのは無理だからと考えて、悟りながらも、誰にも伝えず、一人で死んでいった者はたくさんいたのだ、と。だから、自分もそうしようと。
 しかし、そこから思い直します。いやいや、この世には悟りを求めて、もがいている人がたくさんいる。一人では悟りを開けないが、私が手を差し伸べれば悟りの境地に至ることができる人たちがいるはずだ。「そういう者たちのために、やはり私は布教しよう」と考えた。人のことを見捨てない。こういうガウタマ=シッダルタの心境のことを慈悲という。
 ハスの花は仏教の象徴となっています。ハスは泥の沼の中に咲く。泥の中を茎が伸びてきて、咲く時に花は泥水から顔を出す。ガウタマの教えで、水面までもう少しの所まで来ている修行者が泥水から抜け出して花を咲かせる、つまり悟りの境地に至る。こういうイメージですね。
 こうして、ガウタマは布教活動を開始した。

 2022年8月28日

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