もう一人は日本人の神谷美恵子(かみやみえこ)さん(1914〜79)です。『生きがいについて』(みすず書房、1966)が主著。(生きがいについて――神谷美恵子コレクション)
彼女は物凄いセレブのお嬢さん。戦前から外交官の父親に付き従ってヨーロッパに住み、帰国後はいくつもの大学に通うような人です。通訳の仕事をしたり大学で教えたり、翻訳をしたりと様々な分野で活躍をしています。
彼女が二十歳代の頃だと思いますけが、声楽をやっている知人がハンセン病の療養所に慰問に行くときに、神谷さんはピアノ伴奏を頼まれました。そして初めてハンセン病の療養所に訪れます。その時にものすごいショックを受けた。
当時のハンセン病患者は、あからさまな差別に晒(さら)
され、発病すると隔離されて療養所に入れられ、二度と外に出て家族に会うこともありませんでした。そういう中に置かれた患者たちの生きる姿に感銘を受けたのです。
神谷さん自身が、若い頃結婚を約束していた恋人を失ったという経験があったようです。大事なものを失った中で人生に絶望した事があった。元々すごく繊細で優しい人だったのだと思いますが、自分自身の体験もあり、絶望的な状況の中で生きていく人たちに対して深い共感を持って寄り添う、そういう生き方をしたいと思うようになった。
ハンセン病療養所に慰問に行ってから、療養所で働きたいと家族に訴えたのですが、若い女性が療養所で働くことに家族は猛反対します。その結果すぐに働くことはできなかったのですが、様々な曲折を経た後50歳を超えてから長島愛正園に精神科医長として赴任します。
プリントには神谷さんの別の本に載せられたある女性の詩を載せておきました。
暗やみの中で一人枕をぬらす夜は
息をひそめて/私をよぶ無数の声に耳をすまそう
地の果てから 空の彼方から/遠い過去から ほのかな未来から
夜の闇にこだまする無言のさけび
あれはみんなお前の仲間達/暗やみを一人さまよう者達の声
沈黙に一人耐える者達の声/声も出さずに涙する者達の声
(ブッシュ孝子「白い木馬」、神谷美恵子『こころの旅』(日本評論社、1974)所収)(こころの旅 (神谷美恵子コレクション))
この詩を書いた女性は20代。乳癌に犯されて、愛する夫がいるのに余命2年との宣告を受けて眠れぬ夜にこの詩を書きました。もう自分が死んでしまうという時に、人はどこに生きがいを見つけるのでしょうか。たぶんそういう問題意識が神谷さんにはあって、こんな詩を載せたのだと思います。
彼女の『生きがいについて』という本は学生時代、大学構内の生協書籍部に行くとすごく目についた。みすず書房の真っ白なカバーの背表紙に、黒く「生きがいについて」と何の飾りもなく書いてある。ずっと気になっていた本ですが、今は読む時ではないなあと思っていた。何もかもに絶望して本当に死にたくなった時に手に取るべきかな、と当時の私に感じさせた佇(たたず)まいの本でした。この人の世界にはちょっと近づけない、と私は思った。というよりは、近づくのが畏れ多い人でした。
【参考図書】若松英輔『 100分de名著 神谷美恵子 生きがいについて』(NHK出版、 2018)