また哲学の話に戻ります。ヨーロッパ近代哲学には大きなピークが三つあって、一番めがデカルト、二番目が今日やるカント、三番目の最後がヘーゲルです。これがボスキャラ・ビッグ3です。入学試験では、これ以外の人もたくさん出てきますが、近代哲学史はこの3人デカルト、カント、ヘーゲルで語ることができると思います。
ヘーゲルから後は、世界はどうできているかとか、人間は世界を正しく認識できるのかとか、善とは何か、というような議論は基本的にはなくなる。
さて、デカルトは合理論・演繹法、ベーコンは経験論・帰納法でした。そしてカントはこの二つを総合したと言われます。
カント(1724生)。ドイツ人。批判哲学と書いてありますが、批判という言葉は「検討」という意味だと考えてください。「哲学を検討した」ぐらいの意味です。主著は『 純粋理性批判』、『 実践理性批判』、『永久平和のために』など。
大きく分けて、彼は二つのことをいいます。認識論と道徳論です。理性を二つに分けていて認識に関わる理性のことを純粋理性、道徳に関わる理性のことを実践理性と名付け、それぞれについて検討しています。
まず一番目、認識論です。「私は何をしりうるのか?」を検討しました(純粋理性批判)。
イギリスの経験論の考えでは、外部世界・客観から何らかの情報が経験として主観の中に入ってくる。この経験しかない。バークリーは、存在するとは認識することだといっているし、ヒュームは、自我も認識の束に過ぎないといっている。主観の中でしか世界を考えていない。
なのに、例えば、万有引力の法則を全ての人が納得します。「そうだね、万有引力正しいやん」。地動説に関しても、みんな「そうだね」というわけです。3+4は7だね、ということに関してもみんな一致するでしょ。
それぞれの主観しかないはずなのに、我々みんなが見ている世界は一致している。同じ世界を見ている。なんでやねん、という話になる。
デカルトによれば、主観がコギトから出発して、様々な推論によって多くの結論が導き出される。なぜこの推論が正しいかといえば、神が我々の意識の中に良識や理性を与えているからだ、ということになる。人間は正しい認識をできるので、みんなが見ている世界は同じ世界であり、一致するのだとなる。
カントはこの二つの考えを総合するのです。
確かに僕たちは、外部世界から情報を得ている。また、我々は推論しているけれども、デカルトのように、神を持ち出すことをカントは否定します。神を正しい推論の理由にするのは考えられない。なのに、我々が同じように世界が見えて、自然科学の問題に関して同じ結論に到達するのはなぜなのか、ということをカントは考察します。
ここでカントは、理論理性による認識の仕組みについて考えます。
まず、カントは認識する能力を三つに分けます。一つは感性。これは直感の力。二つ目は悟性。これは判断する能力。最後が理性。これは推論の能力。カントは認識能力を、この三つに分ける事によって、経験論と合理論の立場を融合する。どうやって我々が世界を認識し、一人一人はバラバラなのに同じ世界が見えているのかを説明する。また自然科学の問題については、皆の結論が一致するのに、神が存在するのかとか、宇宙に果てがあるのかとか、時間に出発点はあるのか、という問題についての結論が一致しないのはなぜか、も説明していきます。
人間、主観は、外部世界から何らかの情報を受け取ります。受け取るのが感性です。感性は、空間と時間という認識の枠組みによって、外部世界の情報を受け取る。10分前にも、3分前にも、1秒前にも、今も、「自分の目の前に何か四角い茶色いものがあるなぁ」、と私は認識する。
こうやって認識したものを、次に悟性が判断します。悟性は判断能力なので、感性が受け取ったこの茶色い四角いものは机だな、と判断をする。
何を言っているのかという話ですが、ポイントはどこにあるかというと、それまでの哲学者たちはここに机があるから、僕らは机があると認識すると考えていました。机が先にあります。しかし、カントはこれをひっくり返します。何かがあるのを感性が受け取って、悟性がこれを机だと判断します。僕らが、これを机だと認識するからここに机がある。それまでは、これが何かは分からない。ただ感性が、空間的な広がりと時間的な存在として受け取っているに過ぎない。悟性がこれを机だと「判断」しますが、これが「本当に何か」は実は分からない 。
万有引力の法則を、みんなが正しいと一致して考えたり、3+4=7 であることを、皆が一致して正しいと判断するのはなぜかというと、それは悟性の働きによる。
悟性には経験概念・純粋概念などのカテゴリーがあって、これらは全ての人間に初めから備わっている力です。この悟性が目の前の物体を、机など判断します。この悟性の力は皆が平等に持っているので、悟性が判断する現象の世界に関してはみんなの判断が一致します(この考えで自然科学の認識の「客観性」を保証する(竹田青嗣、『哲学とは何か』p47)。
理性の能力は推論する力です。理性は悟性が判断した現象の世界を乗り越えて、世界そのものが何なのかを推論しようとします。現象の向こう側にある世界そのものの存在に関しては、理性が推論を働かせます。理性は首尾一貫して、整合的に物事を考えようとするので、世界そのものについて考察しようとするのですが、理性は暴走して勝手に世界そのものを解釈するのです。(たとえばイデア論)
しかし、それは理性の能力を超えているので、世界そのものを正しく解釈することはできない。世界そのもののことをカントは、「物自体」といいます。物自体という単語が出てくれば、それはカントのことだと 考えて構いません。(物自体=経験を超えた事柄)
神様はいるのか、宇宙に果てはあるのか、時間には始まりがあるのか、こういう問題を理性は考えようとするのですが、これこそ「物自体」の世界であって、このことを正しく把握する能力は、理性にはない。人々が共通して一致できるのは、悟性が判断する現象世界までであって、その向こう側にある「物自体」については正しく認識できない。だから様々な意見が錯綜して、人々の認識は一致しません。
なかなかわかりにくいですね。例え話でいえば、コンピュータのオペレーションソフト。我々が備えているオペレーションソフト、つまり悟性は、全て同じなので、悟性の範囲内で判断する現象世界については、我々の認識は一致する。
別の例えでいえば、コンピューターの情報は二進法で、全ての情報はゼロとイチで捉えています。コンピューターの画面に美しい画像が映っているけれども、それは0と1の情報の集まりに過ぎません。美しい画像を描くことはできるが、現実の世界をゼロとイチの集まりでしか捉えていない。
しかし実際の世界そのものは、0と1でできているのではない。悟性は現実のこの世界を0と1で捉えている。これが我々がとらえている現象世界。しかし、0と1による認識を越えた向こう側の「物自体」については、認識することができないということです。
こういうふうにして、カントは人々の認識が一致するものと一致しないものがある理由を考えます。これがカントの認識論の一番のポイントです。
もう一度いいます。悟性がこの目の前のものを机だと判断したから、ここに机があるのです。本当にここに机があるかどうかはわかりませんが、あくまでも机があると判断したのは悟性の力です。
この事をカントは、認識における「コペルニクス的転回」だと言っています。コペルニクスが天動説をひっくり返して地動説を唱えたように、カントは自分が認識についての常識をひっくり返したのだといっているわけです。認識する以前にに、机が存在しているのではなく、認識が机を作り出しているのだということですね。
プリントにまとめてあります。このことの意味です。
カントは主観客観問題を、主観と客観の一致ではなく、主観どうしを一致させることで解決した。私が認識している世界と、あなたが認識している世界は、一致するのか一致しないのか。一致しますよ、とカントはいう。一致するのは、我々皆が同じオペレーションソフトを備えているから、皆が同じように1010で世界を把握しているから、現象世界までは一致しますという。悟性が同じだから一致する。
しかし世界そのもの、「物自体」がどうなのかはわかりません、というのがカントの答え。主観同士を一致させることによって、世界の認識が一致するということですね。そして、「物自体」は主観の外にあり、認識不可能。
理論理性によって、神の存在や魂の不滅を認識することはできない。推論しようとする理性は、世界を完全に理解しようとして、その能力を越えて暴走してしまいます。そのために物自体については人々はてんでんバラバラなことを言うのです。
ここまでが理論理性の話です。