「暴走してわけのわからない結論を導き出す理性は、何の役にも立たないではないか」ということになりそうですが、完全を求める理性の力は、道徳領域で力を発揮する、とカントは言います(実践理性)。理性は精神の世界から道徳世界の法則を取り出すことができるのです。
道徳とは、カントによれば、「私は何をなすべきか?」ということです。カントは道徳において、人生の目的は幸福でなく、もっと高い善にあると考えます。彼の考えは多岐にわたっているので、まずここではカントの自由についての考えから見てみます。
自由と不自由
カントは、自然の因果法則に支配されることや、本能・欲求に従うことは不自由だと考えます。雨が降ってきたから傘をさそうかなと思う。自分の意思で「自由に」傘をさしていると普通は考えますが、「雨が降ってきたから」傘をさすのは不自由です。雨に支配されているから。また同様に、お腹が減ったからご飯を食べようかな、と考えて食事をする。これも不自由。食欲という欲望に支配されているから不自由だと考えます。変わっていますね。
では自由とは何か。それは、自分の立てたルールに従うことです。このルールのことをカントは格率(かくりつ)という。自分の立てたルール=格率にしたがうことが、自律であって、それが自由である。お腹が空いたからという理由で、ご飯を食べるのは、食欲に支配されているから不自由です。
Aさんは、12時30分に昼食をとると格率を立てました。Aさんは常にこの格率に従う。どれだけお腹が空いていても、12時30分までは昼食を食べない。12時30分までじっと我慢をして、時間が来たら食べる。これこそが自由だ、というのがカントの考え方。逆に、朝食を食べ過ぎてしまって、12時30分になっても、全然お腹は減っていない。しかし12時30分になったならば食べるのだ、というのが自由です。なんだか不自由な気がしますがね。
カントは、毎日決まった時間に散歩をしていました。決まった時間に散歩をするので、商店街の人はカント先生が通ると、何時のなか分かったといいます。カント自身が散歩のルール、格率をきっちりと決めて、その通り実行していたのです。ただ、ルソーの本を読んでいた時だけは、あまりにも熱中し過ぎて、散歩に出かけるのを忘れてしまったそうです。商店街の人が今日はカント先生が来ない。何かあったんではないか、と心配したという話があります。カント自身が、自分の自由の考え方に従って生きたわけですね。
では、どのような格率を立てるべきか。道徳法則はどのようなものであるべきなのか。道徳法則は「〜せよ」の形をとる、とカントはいう。朝早く起きなさい、嘘をつくのはやめなさい、困った人を助けなさい、など命令形です。この命令形には2種類ある。
一つは定言命法です。無条件の命令「〜せよ」です。「なぜそうするのか?」という理由はありません。無条件に「嘘をつくな」です。これは道徳法則になりえる。
もうひとつは仮言命法。条件付きの命令「もし・・・らば〜せよ」。子供が嘘をつくとお母さんが怒る。子供は思う。お母さんに叱られるから嘘はつかないでおこう。これが仮言命法です。叱られるから喧嘩はするな。警察官に捕まるから犯罪はするな。停学になるからタバコは吸うな。すべて仮言命法です。これは道徳法則となりえないとカントは考える。
したがって、われわれは定言命法によって格率を立てるべきなのです。どのような格率を立てるのかは、自分で考えなければ意味がない。人に命令されては立てた格率は、初めから自由がないから、無意味です。ただし、格率を立てる時の基準をカントが示しています。
1,「あなたの行為の格率が、すべての人にあてはまる普遍的な法則となることを意志しうるように、行為せよ。」
ややこしい言い方をしている。何を言っているのか。例えば「12時30分以前に昼食をとるな」という格率を立てる。しかしこの格率は、他の人たちも実行すべきような普遍的な法則にはなりません。その人にしか意味のない格率です。しかし、「嘘をつくな」という確率をならば、普遍的な法則になりえます。皆がその格率を自分のものとすれば、社会は多分、良くなる。こういうものを格率としなさいと言っている。当たり前のことですね。
※「そのルールを自分以外の人々が無条件に取り入れて行動するような世界に、あなたは住みたいと思うか。それならば、そのルールを自分の確立とせよ。」そのような世界という点で、「自分だけうそをついてもいい」「自分は困った人を助けないけれど、自分は助けてほしい」という「抜け駆け、ただ乗り」を防ぐことができる。また過剰な自己犠牲ルールも防ぐことができる。(大意)(伊勢田哲司『動物からの倫理学入門』)
2,「あなたの人格にも、ほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように、行為せよ。」
何を言っているかというと、「ひとの人格のうちにある人間性を、手段としてのみ扱わない」が要点。カントにとって、自分で格率を立て、それに従って自律的に生きることができる人間の人格というものは素晴らしいものなのです。その人格を尊重しなさいといっている。
だから他人の人格を手段として扱ってはならない。誰かと仲良くなる、友達になるとします。友達だから、その子が困っていたら助けます。
その子は大金持ちの子供なので、その子と仲良くすると色々な物をくれたり、家に呼んで美味しいお菓子を食べさせてくれる。だから、その子と友達になったとすると、これはその子と仲良くなることによって、利益を得ようとしていることになる。
それは、その子を目的としているのではなく、手段として扱っている。こういう付き合い方は良くないということです。簡単だよね。
当たり前のようなのですが、これはなかなか応用が利く。倫理学という学問があって、その分野の本を読んでいると、様々なシチュエーションによる思考実験が出てくるのですが、こんな例が載っていた。テロリストがいる。彼が街のどこかに爆弾を仕掛けた。これがあと数時間後に爆発する。何千人もの人が死ぬ可能性が高い。このテロリストを捕まえることができた。彼は爆弾を仕掛けた場所を知っているので、自白させて爆発を止めたい。しかし爆弾をどこに仕掛けたかを聞いても、彼が答えるはずはない。確信犯ですから。そういう場合、このテロリストを拷問にかけよう、という話になる。あと数時間以内に爆弾の場所がわからないと数千人の人が死ぬのだから、とにかく拷問にかけてでも自白させようとする。拷問にかけていいかどうかも問題なのですが、ここではとりあえず拷問オッケーとしておきましょう。しかしこのテロリストは確信犯なので、拷問をされても爆弾を仕掛けた場所を白状する可能性は非常に低い。この時に、このテロリストに幼い娘がいることがわかった。そこでその娘を連れてきて、テロリストの目の前でこの娘を拷問にかけたらどうだろうか。数千人が爆弾で死ぬ可能性を考えたら、娘に拷問をかけてもいいと考える人もいるかもしれない。
こんなシチュエーションを考えた人もすごいと思いますが、倫理学の本ではこのような例がたくさん出てくる。さあ、この娘に拷問をしてもいいですか。どうですか。
それは駄目だと直感的に考える人は多いでしょう。その根拠は何ですか。何千人もの人が死ぬかもしれないんですよ。娘を拷問にかけてでも、爆弾のありかを白状させなければいけないのではないですか。
こういう時にカントの考えは有効です。カントならば絶対にこれは許しません。爆弾のありかを知るために娘を拷問にかけるというのは、娘の人格を手段としてのみ見ているということなのです。人格を手段としてのみ扱わない、というカントの考え方が、非常に大事な視点を提供してくれていると思います。
補足しておくと、カントは格率は絶対に守らなければならないと考えています。
カント自身が次のような譬えを挙げています。あなたの友人が、町で凶悪な犯罪者に命を狙われ、あなたの家に逃げ込んできた。あなたは友人をかくまいます。そこに凶悪犯がやってきて、あなたの家のドアをドンドン叩き、出てきたあなたに聞きます。「あの男がここに逃げてこなかったか?」この時「嘘をつくな」という格率を立てている場合、どう答えるべきか。友人の安全を守るために、「そんな男は知りません」というのが常識的な考え方ですが、カントはこのような場合でも、格率に従うべしといいます。
嘘をつくな、という確率を立てたのならば、どんな場合でも嘘をついてはいけないのです。自分が嘘をつくかつかないかということと、友人が凶悪犯にひどい目にあうかどうかということを、完全に切り離して考えます。
格率はいつでも絶対に守る。「大切な人の命を守るためになら嘘をついても良い」と、一度条件を緩めてしまったら、やがてルールはどこまでも崩れていき、あっという間に道徳などなくなってしまう、というのがカントの考え方です。厳しい考え方です。
現実に実行できるかどうかは別ですが、このような厳しさの上にカントは道徳について考えていました。
動機主義(動機説)という考え方も、ここから導き出されてきます。
定言命法が良いのです。何かのために何かをする、という仮言命法はカントにとって価値がない。
川で溺れている人を救う。いいことじゃないですか。しかし、溺れた人を助けた動機をカントは重視します。
「困っている人を助けよ」という格率に無条件に従って、自分の命も顧みず溺れている人を救ったならば素晴らしい。「助ければ新聞に載って有名になる、警察に表彰されて、礼金ももらえるぞ」と考えて助けたならば、その行為には全く価値はないのです。
善意志とは、それ自体として善い意志です。道徳法則に従おうとする意志である。
ソクラテスが無条件に善とは何か、徳とは何かという問題を考えたことの延長線にある考え方です。カントの言葉、「この世界のうちで、…無制限に善いと見なしうるものがあるとすれば、それはただ善い意志のみであって、それ以外には考えられない」。
※それ自体で善いものは「善意志」だけであり、だからこそ善意志をもつ存在、人格が尊重される。
人格主義は、さきほど説明したことです。人格を手段として扱ってはならない。人格=自立的で道徳的主体であり、これをカントは尊重する。
人々が善意志にもとづいて、定言命法による確率を立てて行動すれば、理想の共同体社会が生まれます。そういう社会をカントは理想とします。それが「目的の王国」。徳と幸福が調和した最高善の状態。「幸福に値するものとなれ」とはカントの言葉。
※カントは3つめの条件も作っている。「目的の国の立法者として行為せよ」
さらにカントは「永久平和」のために世界連邦を希求します。のちの国際連盟、国際連合の先駆けです。戦争は「目的の王国」とは正反対の状態です。戦争をなくすため、永久平和を実現するためには世界連邦が実現すればいいと考えました。
これは今まで説明してきたカントの考え方と、どう繋がるのか。例えば「殺すな」という格率を立てることに、カントは多分賛成してくれると思います。 これを皆が自分の格率とすれば、殺人もなくなり安全安心な社会が実現するはずです。しかし国と国との戦争が起これば、人々は兵隊として戦場に駆り出され、殺すことを命令されます。戦場は国家権力が人々に「殺せ」と命令する場所です。殺すことを強制されます。「殺すな」という格率を守ることができなくなる。
戦争というのは道徳法則、確率を守る「目的の王国」とは真逆の世界です。ですから、「殺すな」「嘘をつくな」という格率をちゃんと守って生きていくためには、世界は平和でなければならない、とカントは考えたのでしょう。首尾は一貫していますね。