ヘーゲル(1770生)はドイツ人。観念論哲学の完成者と言われ、『精神現象学』『法の哲学』など多くの著書があります。
カントは悟性の力で現象世界を認識する、しかし物自体は認識できないとして、あくまでも主観の範囲で物事を捉えた。各人の世界に関する認識が一致するのは、皆が同じ悟性、たとえて言えば同じオペレーションソフトを備えているから一致するのだと考えた。観念論です。
ヘーゲルも、その観念論を引き継ぎました。しかしカントの批判もします。それが人倫の話です。
@人倫
ヘーゲルによるカント批判は次のようなものです。
カントの道徳は、あくまでも「私」の道徳です。つまり、各人がどのような格率を作るのかに関して、「あなたが作る格率は、他の人が採用しても良いようなものを作りなさい」とは言っていますが、他人との関係とか社会との関係、社会の中の自分というものは置き去りにして、私一人の道徳について述べているだけです。
ヘーゲルはそこを批判します。カントの道徳は主観に過ぎない。カントにとって道徳・自由は個人的なもの。個人と全体の調和はあくまで理想。
ヘーゲルは個人と全体の調和、道徳と自由の具体的な実現をめざしました。これをヘーゲルの言葉で「人倫」と言います。
左側図の丸の中に「道徳」と入れてください。カントはこの道徳のことしか言っていない。しかし社会には「法」がある。右側の丸の中に法と入れてください。これは政府が作った法ではなく社会のルールと考えてもらった方がいいと思う。
個人の道徳と社会的なルール(法)は対立することがある。この二つは対立しますが、これを統合するものとして「人倫」というものを考えます。上の丸の中に「人倫」と入れてください。これは具体的に何か、と聞かれると困るのですが、個人の道徳と社会の法を統合するものとして人倫が現れるのだとヘーゲルは言う。
同じように、家族を考えます。家族の中では皆調和して人間関係はうまく回っている。しかし家から一歩出れば、そこには市民社会がある。当時のドイツでは既に市民社会が現れはじめていました。その市民社会では、様々な欲望が渦巻いている。ヘーゲルは市民社会のことを「欲望の体系」とか「人倫の喪失」と呼んでいます。みんなの欲望が渦巻いて混沌としているのが市民社会です。
そのため、「家族」と「市民社会」の対立が生じます。この対立を統合するものが出てこなければいけない。ヘーゲルはそれは「国家」だと言います。当時のドイツはまだ統一されておらず、江戸時代の日本のように沢山の諸侯の国に分かれていました。そういう歴史的な状況の中から、国家を、家族と市民社会の上に置いたのかもしれません。(法・権利・ただしさは、超越的権威や権力にもとづくものではなく、各人の「自由な意思」にもとづくべき。それは、他者を「自由な人格」として互いに尊重し、認め合う意思であり、「自由の相互承認」の意思であるといえる。(竹田青嗣『哲学とは何か』p50))
以上が人倫についての説明。ヘーゲルの体系はもっと複雑なのです。なかなか理解するのはむつかしい。彼の用語なり、論理なりを、そのままのみ込んでいかないとついていけない。また、彼の直面している課題があまりにも時代的(ドイツにおいて市民社会が形成しはじめる一方で、国民国家成立の具体的な展望がまだ見いだせない19世紀前半)なので、今の我々に切実な課題として響いてくるところが少ないと私は感じます。しかし、とりあえずヘーゲルがこのような形で「人倫」について述べているということを理解してください。