J・S・ミル
ベンサムの功利主義を引き継いだのが、ジョン=スチュアート=ミル(1806年生まれ)です。彼のお父さんも有名な学者なので、区別するために「J・S」をつけます。父親のビルはベンサムと大親友で、 J・S・ミルも幼い頃からベンサムを知っていました。そういう影響もあってミルは功利主義者となります。
ミルはベンサムの考えに欠けているものを補足する。質的功利主義と言います。
先ほどお客さんの来ない文楽劇場よりも、たくさんの人が楽しめるパチンコ店の方が全体の幸福量が上がるという話をしましたが、もし文楽劇場に通ってくるお客さんとパチンコ店に行くお客さんの数が同じだとすれば、単純に幸福量は同じです。この場合どちらを選ぶかという時に、ミルは「質も大事だよね」と考える。同じ快楽かもしれないけれども、パチンコで得る快楽よりも、伝統芸能である文楽鑑賞で得る快楽の方が質が高い、と。精神的な快楽の方が肉体的快樂(パチンコはギャンブル性の快楽ですが)よりも質が高い、価値があるとミルは考えたのです。
「満足した豚よりも不満足な人間の方が良い。満足な愚か者よりも不満足なソクラテスの方が良い」です。
精神的な高みをミルは重視する。そして、他人や社会に貢献することで質の高い快諾を得られると考えました。パチンコをしているよりも、ボランティアをして困った人を助ける快楽の方が質が高い。ミルは利他心を推奨します。
ベンサムは四つの制裁を考えました。これは身勝手な人に対する外部からの制裁ですが、内面を重視するミルは「内的制裁」を重視しました。利己心を抑える良心のとがめを重視、です。この人は性善説ですね。
ミルは自由についても言及して『自由論』という本を書いています。ミルの功利主義はベンサムの功利主義の欠点を補った点はあるのですが、功利主義に伴うすべての欠点を補ったわけではありません。ベンサムのところで話したような、生体臓器移植をどう考えるべきか、という論点は出てきません。カントなら絶対にダメですね。カントは人格を手段にするなと言っているのだから、誰かの命を救うために誰かの命を手段として使うなんて、とんでもない話です。個人的には、カントの人格主義は、こういう問題を考える時に大きな力になると思います。
話がそれましたが、ミルの自由についての考え方は後々に大きな影響を与えることになりました。彼は次のように考えます。
1.判断力のある大人ならば、2.自分の生命・財産に関して、3.他者に危害を及ぼさない限り(他者危害の原則)、4.たとえその決定が本人に不利なことでも、5.自己決定の権利を持つ(愚行権)。
馬鹿なことをやってもいいんだ。たとえばあなたが、顔一面に刺青を入れようとする。親は止めます。友達も多分心配するでしょう。お前大丈夫かと。「誰かに迷惑をかけているのか」。他の人に危害を及ぼさない限り、どれだけ人から見て馬鹿なことであっても、それをやる権利があるとミルはいう。これは現代社会で話題になっている議論です。
資本主義社会と自由は相性が良く、ミルの自由論に基づいた自由についての議論は現在まで絶えることはありません。この自由を現代において最も過激に支持しているのがリバタリアニズム、自由至上主義と呼ばれているものです。経済政策である新自由主義と一緒になって、20世紀の終わりから現代にかけて大きな影響力を持っています。
ノージック(1938年生まれ)という現代思想家が、このリバタリアニズムの代表的な人物です。この教科書には載っていませんが、入試には出ることがあります。リバタリアニズムは自由をものすごく尊重します。個人の自由に干渉してくる政府を極端に嫌います。
例えば自動車を運転する時に、今の法律ではシートベルトを締めなければいけません。助手席に乗っている人もシートベルトを締めないと、交通規則違反になります。ノージックに言わせれば、「シートベルトを締めろ」、などとは大きなお世話です。シートベルトを締めず交通事故を起こして大怪我をしても、それは自分の勝手である。愚行権だ。怪我をするかどうかは俺の勝手であって、「大怪我をしないようにシートベルトをしないと罰する」などとは、私の自由を侵害するものだ、と考える。
アメリカでは選挙の時に、妊娠中絶に対する考え方が常に話題になります。州によって中絶を認めているところと、認めていないところがあります。ノージックは妊娠中絶の禁止には猛反対です。産むか産まないかは妊婦の自由である。中絶しようとしまいと、それは個人の勝手である。それを政府が禁止するなどとんでもないという発想です。
自由に働いた結果、成功して莫大な収入を得る人がいる。一方で貧困層の人々がいます。格差の解消、富の再分配という考えから、政府が富裕層から税金を多く徴収し、貧しい人の救済や福祉のために支出するという政策にも猛反対します。
私が自分の努力でこれだけの財産を築き挙げたのに、それを政府が取り上げるなどとんでもない。政府に私の財産を奪う権利はない。貧乏になっている連中は自分の自由の結果、自分の責任で貧乏になっているのだ。なぜ彼らを救済するために金持ちから税金を取るのか。貧乏になるのも自由。それは彼らの責任。こういう考え方です。
現在、格差の拡大が問題になっているけれども、ノージックの考えでは格差の拡大はオッケーです。自由の結果そうなったのである。格差の是正を政府が目指すのは、出過ぎたことである。そんな風に考えるようです。
ミルは、ノージックのように極端なことをいっているわけではありませんが、彼の自由に対する考え方は、現在ではノージックのようなリバタリアニズムの考え方に結びついているということです。