時間切れ!倫理

 202 実存主義 

 実存主義とはどんな哲学なのでしょうか。哲学なのに「主義」とはおかしなネーミングだとは思いませんか。でも、その中身を知っていくと、「主義」だなと感じると思います。
 まずは、実存主義が生まれてきた背景を考えるために、これまでの西欧哲学の流れを簡単に振り返っておきましょう。

 実存主義以前に、デカルト、カント、ヘーゲルなど大きな哲学がありました。世界はどうなっているのか、人間の認識は世界と一致しているのか、など大きな問題を考えていた。彼らには共通点がある。
みんな理性の力を信じている。進歩を信じてる。啓蒙思想につらなる発想がある。人々の無知蒙昧をひらいていこうと考えている。
 ヘーゲルは、絶対精神が自由を実現する過程が世界史だと考えた。彼によれば、皆が自由になるところで歴史は完結する。私の中では、これは理性が世界中に満ち満ちているイメージです。

 ところが19世紀半ばに入ってくると、理性が絶対的な位置から滑り落ちてきます。
 例えばダーウィンは進化論を唱える。人々は人間の理性に全幅の信頼を寄せ、特権的な地位に祭り上げているが、人間も元は猿の仲間で、もっとさかのぼればただの獣であり、そんな人間、たかだか動物にすぎない人間が、「理性だ」「進歩だ」「啓蒙だ」と考えることに対して、無条件に賛同できなくなる時代がやってきました。

 また、マルクスは上部構造は下部構造に規定されていると考えた。精神は現実世界の物質的諸条件の反映にすぎないと考える。やはり理性を絶対的な位置から引き下げている。

 20世紀に入ると、フロイトが登場して「無意識」を発見する。人間の精神には自分でも捉えられない大きな無意識の闇があって、人々の意識はそれに動かされていると説いた。理性とされていた精神の働きさえ、無意識によって支配されているかもしれないのです。単純に理性を信じられなくなります。

 一方、19世紀半ばぐらいから、大衆が登場し、大衆社会が徐々に成立してくる。大衆社会とはなにか。
 今の日本は大衆社会です。皆が同じテレビを見て、 YouTube を見て、 皆が同じような音楽を聴いて、同じような流行を追い、同じようなファッションをしている。
 貴族社会(身分制社会)や市民(ブルジョア)社会では、 個人個人がそれぞれ個性を発揮していたのに、そういう個性が大衆の中に埋没していく。
 そういう社会の変化の中で、「私は一体何?」と考えるようになる。「みんなとわたしの違いは何?」と。

 デカルト、カント、ヘーゲルなどの哲学者たちは、進歩や理性を信じていましたが、そういうものが単純に信じられなくなる。デカルト、カント、ヘーゲルが考えたのは、認識はどうなっているのか、世界はどうなっているのか、理性の力はどのようなものなのか、でした。そして、一人一人の人間の生き方は、問題意識の外にあり、どうでもいいのでした。
 しかし、そうはいかなくなる。大衆の中に埋没している「私にとっての世界」はどういうものなのか、ということを考え始める人々が現れます。「私は世界とどうかかわったらよいのか?」という問題意識です。

 実存主義というのは、客観的な一般論は取っ払って、「私って何?」と自分のことを考える。善とは何か、真理とは何か、ではなく、私って何?と「この私」を問題にします。

 では、具体的に見ていきましょう。

2025年12月30日

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