時間切れ!倫理

 34 アリストテレス:人物

 アリストテレス(BC384〜)はプラトンの弟子です。40歳ほど年下。プラトンの教育方針はとてもおおらかで、弟子が自分と違う考えを持っていても、それを咎めることはなかったらしい。

 そして、アリストテレスはプラトンの考えを、大いに批判することによって自分の哲学を作り上げました。ただ、アリストテレスは哲学者としてだけでなく、古代ギリシアの諸学を集大成した「万学の祖」という形で後世に大きな影響をあたえています。実のところ、彼の自然科学が後世へあたえた影響は哲学以上に大きいような気がします。
 ニュートンが17世紀に登場して新しい科学の枠組みを作り上げるまでは、ヨーロッパ人たちは自然現象をアリストテレスの考え方によって説明していました。例えば、投げたボールが手を離れた後も遠くまで進んで飛んでいくのは、ニュートンによって慣性の法則として説明され、私たちもそれを学校で習って当たり前のように受け入れています。しかし、ニュートン以前は慣性の法則は知られておらず、手から離れたボールが遠くへ飛んでいく理屈は、アリストテレスの説によって説明されていました。手から離れたボールが前に進むと、ボールの前にあった空気がボールの後ろに回り込んで、ボールを前に押し出す。そのためにボールはどんどんと進んでいくのだ、と考えられていました。
 常に力を加え続けていない限り、物は動かない。これは、アリストテレスが考えた自然の法則であり、アリストテレス以降のヨーロッパ人の常識でした。

 このような、現在では物理学に当たるような学問、それから生物学、論理学、博物学、さらに貨幣がなぜ生まれたのか、ということまで彼は考えていました。そういう意味で「万学の祖」といわれています。

 さて、アリストテレスの哲学ですが、彼の考えはプラトンの考えをしっかり理解しておくと非常に覚えやすいです。なぜならば、プラトンの説を、批判しながら自分の哲学を作りあげているからです。

 多分、気質的にもプラトンとアリストテレスは正反対な所があって、プラトンは非常にロマンチスト、理想主義的なところがあり、彼の哲学も全体的に文学的な、詩的な雰囲気があります。一方、アリストテレスの特徴としては現実主義的、理系的なところがある。そう考えておくと理解しやすいと思います。

 アリストテレスについてもう一つ付け加えておくと、彼はソクラテスやプラトンのようにアテネの出身ではありませんでした。アテネやスパルタなど主要なギリシャ人のポリスは、バルカン半島の先端であるペロポネソス半島に集中しています。ここがギリシア世界の先進地域です。そして、その北方にもギリシャ人が住んでいました。北方のギリシャ人達はポリスを形成しておらず王や貴族を中心とした国家体制を作っていました。南方のポリス社会からは、後進地域として下に見られていたのですが、そこにマケドニアという国がありました。
 アリストテレスはこのマケドニア王国の支配地出身です。やがてアテネに出てきて哲学者として大成するのですが、彼が哲学者として有名になった頃マケドニアの王フィリッポス2世という人が、息子の家庭教師としてアリストテレスを招きました。この息子こそ、後にアレクサンドロス大王として有名になる人物です。 アレクサンドロスが13歳の時から3年間ぐらい、ですから現在の中学生にあたる時期、その時期に家庭教師として様々な学問を教えました。

 アレクサンドロス大王は聞いたことがありますね。彼は父の突然の死を受け、若干二十歳でマケドニア王となり、ポリス世界を含むギリシャ全土を支配下におさめます。そして、ギリシア重装歩兵軍団を率いてペルシアに遠征を行ったことで有名です。ペルシア帝国を滅ぼしたのちも、東に向かって進軍を続けインダス川流域まで占領しました。ギリシャからエジプト現在のイラクやイランアフガニスタンパキスタンにまで及ぶ大帝国を作ったのです。
 アレクサンドロス大王の思想にどれほどアリストテレスの影響があるのかはわかりませんが、大王が学問好きだったことは確かなようで、 東方遠征に向かうときに多くの学者を帯同しています。

「アリストテレスの形而上学は、大まかにいえば、常識によって薄められたプラトン説」
「彼が難解であるのは、プラトンと常識とが容易に混じりあわないから」
(バ−トランド・ラッセル『西洋哲学史 1』市井三郎訳、みすず書房、1970)

 2021年07月16日

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