時間切れ!倫理

 36 徳・中庸

 次に二種類の徳の話に入ります。ソクラテスは知徳合一といっていました。徳とは修行や悟りで得るものではなくて、知を働かせることで身につるけることができましたね。それは多分プラトンもアリストテレスも同じです。しかし、やっぱりアリストテレスは、師匠がいっていることを自分なりにアレンジしたい。そこで、徳を二つに分けます。知性的徳と倫理的徳の二つです。倫理的徳は資料集では性格的徳と書いています。倫理的徳の方がよく使うようだけど、性格的徳といった方がわかりやすい気がします。

 知性的徳をみてください。観想(テオリア)、思慮(フロネーシス)が知性的徳に含まれる。これらは学習によって備わる。言い換えると理性から生まれる。頭の中で考える理性の力によってこれらの徳は獲得できる。「観想」って難しいですね。何か静かに物事を考え、頭を働かせてあれこれ考える。「思慮」も同じようなイメージですね。

 倫理的徳には、勇気、節制、正義などが含まれます。これらはソクラテスがいわゆる徳といっていたものですね。アリストテレスはこれを倫理的徳といいました。これは習慣によって身につく。知徳合一だから、理性を使って獲得できるのではないかというと、「いや、こっちは違う」というのです。「習慣だよ」と。勇気とか節制とかを考えてみると、勇気っていうのは頭の中で「私は勇気あります」って考えても意味がないですよね。それでは、勇気があるかどうかはわかりません。節制もそうです。無駄遣いしているかどうかは行動から出てくることだ。寛大さも、誰かに優しくするということを、頭の中で一生懸命考えても意味がない。実際に誰かに優しくするということで態度と結びついています。

 どうも私が思うに、知性的徳は、頭脳系です。頭の中だけで完結する。倫理的徳は、行動系。実際に動いてみなければ備わっているかどうかわからない。椅子に座ったまま「私は勇気がある」といくらいっても、それはあまり意味がない。だからこれは行動系だ。と考えると、倫理的徳は習慣によって身につくという考えは非常に分かりやすいと思います。勇気ある行動をとったことがない人間が、いざという時に勇気ある行動をできるかというと、それは難しいかもしれない。いつも人に優しくない人間が、いざという時に優しくしようと思ってもなかなか難しいだろう。つまり寛大さとか勇気とかは行動系。だから習慣によって備わる。頭の中で、理性を働かせるだけで身につくというのとは、ちょっと違うね。思考するだけではなく、実際にやらなきゃだめだねという。ソクラテスとは違う。
 この辺がアリストテレス的なとこです。もっというと、すごく常識的。アリストテレスは常識的です。勇気・寛大といっても、やらなきゃダメじゃん、といっている。イデア?そんなものどこにもないじゃん、ここしかないよねって、めちゃくちゃ常識的。プラトンのいっていることを、当たり前の世界に持ってきている感じがする。
 補足しておくとアリストテレスによると、習慣を身につけさせるのは知性的徳に含まれる思慮の力によります。

中庸

 さらにアリストテレスの常識的な点は、中庸についての考えです。彼は、倫理的徳にはバランスが必要だという。多すぎても少なすぎてもだめだ、と。教科書の36ページの上に簡単な図がついています。見たらすぐ理解できる。勇気という徳は、多すぎると無謀、少なすぎると臆病になる。そりゃそうだよって感じだね。節制が過ぎると「ふしだら」で、不足すると鈍感、ないしは鈍感。ここは少しわかりにくいけれど、まあそんな感じなのでしょう。「気前のよさ」はちょうどいいと、いいけれど、多すぎると浪費、足りないと「けち」。「矜持、プライド」は多すぎると高慢、たりないと卑屈になる。「ほどほどにね」といっている。すごく常識的。

※「自分がまだ何も知っていないかのようにふるまう「おとぼけ」と、自分が森羅万象の説明原理をもう手に入れているかのようにふるまう「はったり」とを、彼は両極として退けた。おそらくソクラテスが「おとぼけ」で、プラトンが「はったり」。その中間に自分を位置づけていたのだと思われる。」(『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦 (ちくま学芸文庫)』永井均)

 2021年07月31日

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