時間切れ!倫理

 37 最高善

 さて、アリストテレスは、人生の究極の目標は何かという問いに「最高善」と答える。抽象的ですね。プラトンは、最高のイデアが「善のイデア」だといっていました。その考えがここにこだましている感じがします。
 では「最高善って何?」というと、それは「幸せ」だとアリストテレスは答える。アリストテレスは「幸せになりたいんだよ」といっている。「究極目的」は「幸せ」。めちゃくちゃ常識的。というか、当たり前すぎる。
 ここから先が重要です。あなたにとって「幸せって何?」と、さらに突っ込むと、教科書の言葉をそのまま書いておきますが、「徳を備えたすぐれた魂を活動させること」、これが幸せなのだという。「徳」という言葉。ソクラテス、プラトン、アリストテレスにとっては、「徳」がキーワード。すごく大事なのですね。ソクラテスは「魂への配慮」が大事だ、それは徳を追求することなのだといっていた。これに少しバージョンを変えていっている感じです。

※幸福はギリシャ語ではエウダイモニア。もとの意味は「ダイモーン(守護神)の加護があること」。客観的に「繁栄している」とか「うまくいっている」といった意味で、主観的な快楽とは区別される。(永井均『倫理とは何か』ちくま学芸文庫、2011)

 現在、私たちの生きる21世紀の社会では、徳とか「すぐれた魂」という言葉はピンと来ません。なんとなくわかる気はするけども、僕たちにとってのそれは「幸せ」とは結びつかない。僕は「すぐれた魂」を求めていますという人は、多分ここにはいない。いたらごめんね。徳を追求しているんですという人に、私は会ったことがない。
 時代によって大事なことは違ってくる。アリストテレスやプラトンが生きた時代は、正義とか善とかを備えている人物がいたら、みんなが「おお素晴らしい!」と思ったんだ。ポリスの社会の中で。それが人間にとって一番いいことだと考えられていたのでしょう。それがアリストテレスの究極目標です。
 試験に出るわけではないけれど、考えておいてほしいことですね。皆さんは、なぜ勉強している。大学に入りたいから。なぜ、大学に入りたい。大きな安定した企業に入って、生活を安定させたいから。なぜ、生活を安定させたい? 安心して暮らしたいからかな。なぜ、安心して暮らしたい? それが幸せ。なぜ幸せになりたい?「うーん、そこから先はわからない。」ならば、それが究極目的です。
 「それは何のためなのか」とどんどん突き詰めて考えていって、それ以上いくら問い詰めても、何もでてこないところまで行きついたら、それがあなたの究極目標だ。幸せに暮らすための道は、大学に入っていい会社に入る以外に、ひょっとしてあるかもしれないですね。 人によっては、全然違うことを考えているかもしれません。YouTuberになりたい。なぜ?みんなにたくさん見てほしい。なんで? わかんないけど、再生回数増えたらうれしい。それ以上の答えがないのならば、それが究極目標だ。お金がいっぱい溜まったらいいとか、「いいね」をたくさんもらいたいとか、人気 YouTuber になって注目されたい、とか。これらが究極目標になるかもしれません。良い悪いではない。現代では有名になることやお金に究極の価値をおくひとが多いかもしれない。けれど昔はそうじゃなかった。
 数日前に、日本で多額の給料もらっている人のランキングがでて、一位がどこかの会社の役員さんで、年収22億円。それだけもらったら使うだけでも難しいよ。その金額のどこに意味があるんだって、僕なんか思うけれども。ただただお金を積み上げるのが好きという人には、それが究極目標なんだろう。

 話を戻しますが、古代ギリシアでは、究極目標は最高善として考えられていた。そのなかで、とりわけ何をしたいのかと問われたら、アリストテレスの答えは「観想的生活」。知性を働かせて真理をつかむことです。「徳を備えたすぐれた魂を活動させる」とほぼ同じ、言い換えといってもいいですね。これが幸せであり、最高善である、ということです。以上がアリストテレスの哲学の内容でした。真実をつかみたいというところは、ソクラテスの直系の弟子だね。それが幸せなのだと考え、徳を備えるのだと心がけた。

※プラトンも、アリストテレスもその哲学の中心には徳という考え方がある。正しい生き方を考える上で倫理の中心にあるのが徳なのだが、近代以降倫理の中心となる考え方は功利主義と契約となった。1981年にマッキンタイアの『美徳なき時代』が出版されて以降「徳倫理学」が再び注目を浴びつつある。(伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』)

 2021年08月07日

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