時間切れ!倫理

 57 陽明学

王陽明
 朱子の300年後、朱子学に異を唱える人物が現われます。王陽明(1472生)です。明の時代、日本では室町時代。この人の学問を陽明学という。著書は『伝習録』。
 朱子は、学者としては超一流で、彼の学問、朱子学は後の儒学の主流にまでなりましたが、朱子本人は官僚としては出世できませんでした。王陽明はタイプが違う。科挙に合格して、バリバリのキャリア官僚として抜群の働きを見せた人です。政争に破れて、今の雲南省に左遷される。その時に、自説である陽明学を固めたようです。

心即理
 朱子は、理は人間の本姓だといいました。しかし、濁ってるからこれを磨かなければならないとした。そのために格物致知だといった。格物は「物をきわめる」という意味。自分の理は濁っているので、外の世界の物を研究する。外部の物には、理を濁らすような気はないので、物を極めれば理を磨くことができると考えた。
 これは、具体的には何をするのかわからないといいました。ところが、王陽明は独自解釈で、物を極めようと実践してみた。友達と二人で、一週間竹藪をにらみつづけた。三日目に友人は精神に変調をきたしてしまった。王陽明は例の100点主義で(多分)、「こいつは精神力が足らん」と決めつけたけれど、自分も7日目には倒れてしまいました。王陽明の結論、「これはダメだ。いくら外から物を見つめても理なんかわからない。朱子がいっていることはウソじゃん。」
 さらに、よく考えてみれば、「性即理」というのだから、自分の中に理はあると考えた。これが王陽明の「心即理」。

致良知
 「心即理」ならば、自分の中にある理をちゃんと見つめたらいいよね、という話になります。外側の物に理を探求しなくてもよい、という結論。だから自分の心に問うのです。
 「これは本当か?これは仁にかなってるのか?」と、ずっと自分に問いつづける。そのことによって自分の中の理を発揮します。これを「致良知」といいます。単語をそのまま覚えてください。現代中国語に近いので、書き下ししても意味が取れない。心の中の理を見極める。自分の中に理を見出す。

知行合一
 さらに、日常生活のひとつひとつの行動は、知の実践とは切り離せないということで「知行合一」といいます。ソクラテスの「知行合一」とは全然意味が違う。ソクラテスはそれが正しいと思ったら、やらずにはおられない、ということでしたね。

事上磨錬
 「知行合一」をもっと具体的にいったのが、「事上磨錬」。日常生活に対処する中で自己を磨くべし。ちょっと朱子の説に反発しています。
 これは、実は過激なのです。自分の心をじっと見つめて自分に問うた時に、例えば孔子が『論語』でこんなことをいっているけども、自分の内側と問答して孔子の考えに納得がいかなければ、自分の方が正しい、となる。
 「孔子の言葉といえども、我が心の中の理に叶わないものであれば、それは間違いである」とまでいい切ります。主体的です。権威に服さない。自分の中に真理があるのだから、自分が一番です。普通の人は、権威に対して臆病になるけども、それに歯向かって、はっきりモノをいい、行動することも恐れない。
 そこで、中国でも朝鮮でも日本でも、陽明学をやっている連中は危険視されることが多かった。有名なところでは、幕末に、大坂で反乱を起こした大塩平八郎は、陽明学をやっていた。彼は大坂町奉行に勤務する与力だった。幕府の役人だけれど、天保の大飢饉の際、大坂の民衆の惨状を見て反乱を起こしたました。大坂の北浜あたりが火の海になったといいます。しかし、反乱は半日で鎮圧され、大塩は短い逃亡の後、自殺しました。彼の反乱は、全国に広がることもなく、幕府を揺るがすことはなかったけれども、幕府に衝撃を与えました。彼の行動は陽明学とは無縁ではないように思えます。

 2021年11月27日

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