時間切れ!倫理

 69 旧約聖書 モーセ2

 モーセはいいます。私がエジプトに戻ってもイスラエル人たちは私のいうこと聞いてくれるでしょうか?「イスラエル人たちに、神の名前を聞かれたら私はなんと答えればいいんですか」と。
 そうすると、神は自分の名を名乗ります。旧約聖書のなかで、アダムとエヴァからはじまり、ノア、アブラハムなど様々な人が神様と関わってくるのだけど、神が自分の名前を告げるのはこの時、モーセに対して語る時が初めてなのです(※)。何と名乗ったか。「わたしは〈われ有り〉という者」とか「わたしは、わたし自身で存在する者である」とか日本語の翻訳によっていろんな表現があるが、これが神の名前。「単独で存在している存在者」ということを意味しているようです。意訳するとこういう表現になるんだけども、イスラエル人たちの言葉で何と発音したかというと「ヤハウェ」です。これが神の名前です。

※キリスト教神学的には、神が自らの名をモーセに告げたことは大きなテーマであるようだ。
『旧約聖書:歴史・文学・宗教』(C・レヴィン、教文館、2004)によれば、この場面は祭祀の起源を示すものがたりが、出エジプト記に挿入されたという。 創世記4-26「そのころヤハウェの名を呼ぶことが始まった」(中沢洽樹訳、中公クラッシクス『旧約聖書』、中央公論新社)とあり、すでに人々がヤハウェの名を知り、呼んでいる記述がある。あとから順序の入れ替えがおきたと考えれば納得がいく。

 神から名前を聞いたモーセは、エジプトに戻ります。イスラエル人をまとめて、ファラオと交渉する。ファラオからエジプトから出る許可を得ようとするわけです。ところがファラオは許さない。神がバックについているので、モーセは様々な奇跡を起こす。ファラオの目の前でモーセの杖が蛇に変身する。ファラオは「なんだ、そんな手品」と信じない。モーセはナイルの水を血に代えたり、カエルを大量発生させたり、疫病を起こしたり、さまざまな災いをもたらす。
 とうとうファラオはエジプトからイスラエル人たちが出て行くことを認めます。そこでモーセはイスラエル人たちまとめてエジプトを去ります。これが出エジプト。砂漠を渡って紅海の岸辺までやってくる。ところが、ファラオはイスラエル人たちが出ていくことを許してしまったことをあとから後悔して、彼らを連れ戻すために軍隊を派遣した。それがどんどん追いかけくる。
 イスラエル人のなかには、「あんたを信じてついて来たのに、後ろからエジプト軍がくるじゃないか。俺たちここで死んでしまうのか。何てことをしてくれたんだ。これなら奴隷のままでよかった」とモーセに文句をいうやつも出てくる。
 するとモーセは「神の御業を信じなさい」。すると天からものすごい風が吹いて、紅海の水を二つに分けて海の底に地面が見える。そこを通ってイスラエル人たちは対岸に逃げました。追いかけてきたエジプト軍も海の底の道を通ろうとしたのですが、途端に海水が崩れてきて水に溺れて死んでしまった。「十戒」という映画で有名になったシーンです。
 シナイ半島にやってきた一行ですが、モーセは神の声に導かれて仲間たちをふもとに残して一人でシナイ山に登ります。映画「十戒」の演出では、山に登ると、炎で表現された神の指が伸びてきて山の岩肌に岩に文字を刻んだ。これが神によってモーセに授けられた十戒です。
 こうして神から授けられた戒律を刻んだと岩の板を持ってモーセは麓に降りてきて、皆に告げた。「これが神から授けられた戒律だ。俺達は今からこの戒律を守って、この神を信仰するのだ」。
 これがユダヤ教の起源となります。教科書にはイタリアの有名な彫刻家ミケランジェロが作ったモーセ像が載っています。モーセの右脇に注目。板を抱えているのがわかりますか。これが十戒を刻んだ岩の板です。

※モーセがシナイ山で神から啓示を受ける場面は、旧約聖書ではかなり複雑でわかりにくい。山に登ったのは一度ではないし、麓にも神が降臨したようでもある。多くの素材資料を編集せずに並べた様子が感じ取れる。

 2021年1月30日

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