時間切れ!倫理

 74 形式的律法主義への批判

(ア) ユダヤ教の形式的律法主義を批判

 彼の教えの特徴として、まずは律法主義の批判。戒律を守れというのがユダヤ教の大きな特徴だったけれども、それを無視します。具体的には安息日の戒律。モーセの十戒には盗むなとか、殺すなとかありますけども、普通の人は簡単に人を殺したり人の物を取ったりしまん。けれど安息日は誰にでもやって来る。前回も話しましたが、安息日の戒律は貧しい人々を苦しめていた。貧しい人たちは簡単に休めない。お金持ちのためにお金をもらって食事作るなどして働く。その結果、戒律を守ってないということで、救われない。
 それはおかしいじゃないか、安息日を守れなくても構わないんだよ、と彼は活動する。皆が見ている前で安息日に穀物を刈り取る。これ見よがしに安息日を無視する。こんなことで、神様から救われなくなることはない。人のために安息日があるのであって、安息日のために人がいるのではないんだ、という。これは社会的な弱者に寄り添うということに繋がる。

(イ) 社会的弱者によりそう

 イエスは徹底して弱いものの味方です。有名な説法で「山上の垂訓」があります。いろいろなところで、イエスは自分の周りに集まってきた人に説法するのですが、一番有名なのが山上の垂訓。その最初が「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」そのあとも続きますが、やはり一番大事なのは一行目だろうね。
 「心が貧しい人は幸い」。なぜ心の貧しい人が幸せなのか。心が貧しいというと、僕らの感覚ではあまり良くない人のようなイメージがする。偏狭で人に意地悪な人かなと思いますが、イエスの話の文脈では必ずしもそういうことではなさそうです。
 心が貧しいとは、心に余裕がない、毎日神様に祈りを捧げる余裕がない。日々の暮らしに追い詰められている人々。追いつめられたら余裕などなくなる。心が貧しくなる。お金も時間もたっぷりある、何の心配もない人は、心が広くなって人にも親切になるよね。けれども生活に追われている、借金取りに追われている、子供の世話で必死になっている。バタバタと生活に追われながら働いている人にとっては、他人に親切にするどころではない。自分のことでいっぱいいっぱい。こういう人を心の貧しい人といったのではないか。つまり、具体的にはお金のない人、貧者、下層階級の人たちのことではないのか。こういう人たちに対して、「あなたたちは幸せだよ」なぜなら「神様から救われるから」。
 戒律を無視しても構わないということと、「心が貧しいものは幸い」はリンクしていると思う。戒律を無視しなければならないほど、余裕のないあなた、あなたは救われるのだと。

※資料集の「山上の垂訓」はマタイによる福音書からの引用なので「心の貧しいもの」ということで説明をした。しかし、ルカ福音書では単に「貧しいもの」となっている。このことに気が付いたのは授業後だった。多分ルカの方が、真実のイエスの説教に近いと思われる(「マタイの著者はこのままではこのせりふに無理があることをよく知っている。だから言葉を補って、「霊において貧しい者」と説明する」田川健三『イエスという男 第二版 増補改訂』)。次に教える機会があれば、福音書によって内容に違いうことをがあること、この部分の違い、その理由(キリスト教の受容過程での解釈の変化)にも触れたい。今回の説明はかなり変わると思う。 ちなみに、本当に貧しいものを前にして「あなたは幸い」といえるのか、という問題をザイールで聖書学を教えた田川健三が自分の体験を踏まえて書いているのが、『イエスという男』(作品者、1984)、体験そのものは『はじめて読む聖書 (新潮新書)』(2014)所収「神を信じないクリスチャン」参照。

 イエスの説法を見ていくと、しばしば「あなたの罪は許された」と言っている。貧しい人たちは自分たちを罪びとだと思っている。戒律を守れないから、救われない。そう思っている人に対して、「あなたの罪は赦された」という。イエスは許す。いわれた人はほっとしますよね。差別されている人たちにもいいます。たとえば、売春婦。好きで売春する人はいないと思います。追い詰められて、それしか生きる道が見いだせない。本人は辛いよね。それで差別されるし蔑まれる。そういう人たちに「許された」というのです。価値観のひっくり返しです。世の中の常識を覆す。それから病人にたしても「許された」という。当時は病気になること自体が神の罰だと思われていました。だから病気になったらなにかの罪を犯したあかしと思われていた。その病人にも許しを与える。
 「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通る難しい」。これも有名な言葉です。らくだが針の穴を通れるはずがない。それよりも金持ちが天国行くのは難しいといっている。つまり、無理ということ。だって、かれらは君たちをひどい目に合わせているでしょ。では誰が行くのか。「君たちでしょ」と貧しい人、差別されている人々に教えている。
 こんな説教を聞いた人達はショックだったと思う。いい意味でね。「ええっ、私たちは許されているんですか。」「そうだよ。君たちこそ天国へ行けるよ。」イエスの教えを信じてみたい。もっと話を聞かせてください、ということになると思います。
 新約聖書の中の言葉を見ていくと、常識を覆すことたくさん言っている。有名なセリフで「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」。「目には目を、歯には歯を」の伝統があるオリエント地方です。暴力振るわれたら、やり返すのが常識だった当時の世界で、全く逆のことをいう。与えなさいという発想ですね。たたきたいのなら、たたかせてやりなさい、ということです。それまで自分が信じていた価値観が、イエスの言葉で全面的にひっくり返される。彼の話す言葉で価値観を組み立てなおすと、世界がまったく違って見える。自分たちこそ救われるということが納得できたのだと思う。

 2022年3月25日

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